Title
「般若心経」講義
Author
紀野一義
Subtitle
二〇 一色一生
Description
「色」ということや、ノヴアーリスのことばなどで、どうしても思い出さずにはいられない女人(ひと)がいる。そのひとは、染や織の世界で第一人者といわれている志村ふくみというひとで、「一色一生」という本も書かれたのでご存じの方も多いことだろう。
このひとは植物から染料を取り出して糸を染めることに生涯を賭けているので、多分、般若心経の「色即是空」から眼を放すことができないだろうなと推測していたら果してそうだった。
このひとは、大自然を彩るもっとも美しい色である「紅」と「緑」の色がなかなか染まらないところから、それが「色即是空」をそのまま物語っているといわれる。このひとの場合、「色即是空とは、色はあっても人の力でその色は出せない、色は人の力の及ばないところ、人の眼にふれないところに生きている」ということになろうか。
美しい色は自然の中にある、その色はごくすんなりと、自然に出てくる。しかしその色を人間が出そうとすると、人間はどれだけ空しいこころみをしなければならないことか。やってもやっても色は出ない、なんとあてにならぬ、空しいことのくり返しであることか、と志村ふくみさんは言いたいのだろう。
志村さんは「一色一生」の中でこう言っている。
以前桜でもそういう思いをしたことがありました。まだ折々粉雪の舞う小倉山の麓で桜を切っている老人に出会い、枝をいただいてかえりました。早速煮出して染めてみますと、ほんのりした樺桜のような桜色が染まりました。
その後、桜、桜と思いつめていましたが、桜はなかなか切る人がなく、たまたま九月の台風の頃でしたか、滋賀県の方で大木を切るからときき、喜び勇んででかけました。しかし、その時の桜は三月の桜と全然違って、匂い立つことはありませんでした。
その時はじめて知ったのです。桜が花を咲かすために樹全体に宿している命のことを。一年中、桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯めていたのです。
知らずしてその花の命を私はいただいていたのです。それならば私は桜の花を、私の着物の中に咲かせずにはいられないと、その時、桜から教えられたのです。
植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。たとえ色は出ても、精ではないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません。
友人が桜の花の花弁ばかりを集めて染めてみたそうですが、それは灰色がかったうす緑だったそうです。幹で染めた色が桜色で、花弁で染めた色がうす緑ということは、自然の周期をあらかじめ伝える暗示にとんだ色のように思われます。……
夏の終わりに地上に散った花弁が、少し冷気を帯びて、黄ばんだローズ色になるのをご存じでしよう。それは寂しい色合で捨てがたいものでしたが、精色は抜けていました。咲き誇るあでやかな花の色のすぐ傍に、凋落のきざしがあるということでしょうか。
花は紅、柳は緑といわれるほど色を代表する植物の緑と花の色が染まらないということは、色即是空をそのまま物語っているように思います。
植物の命の尖端は、もうこの世以外のものにふれつつあり、それ故に美しく、厳粛でさえあります。
ノヴアーリスは次のように語っています。
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている
きこえるものは、きこえないものにさわっている
感じられるものは、感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
本当のものは、みえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことの出来ない領域のもの、海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしよう。この地球上に最も広大な領域を占める青と緑を直接に染め出すことができないとしたら、自然のどこに、その色を染め出すことの出来るものがひそんでいるのでしよう。
志村ふくみさんのこの文章は、さまざまのことを人に考えさせる。志村さんのお好きな、ノヴァーリスのことばにしても、「すべてのみえるもの」は「色」のことだし、「きこえるもの」は「色・声・香・味・触・法」の中の「声」にあたるだろう。「感じられるもの」は「受」と「想」にあたるだろうし、「考えられるもの」は「行」と「識」とにあたるだろう。
そして「みえないもの」「きこえないもの」「感じられないもの」「考えられないもの」は「空」ということになるだろう。
ノヴァーリスの言っている世界そのものが「色即是空、空即是色」の世界なのだから、色を染め出すことの喜びと空しさを知りつくしている志村さんがノヴァーリスにひかれるのも無理はない。
ノヴァーリスは二百年も昔のドイツの詩人だが、戦前の若者にとってノヴァーリスの「青い花」と「フラグメンテ」(断片集)は青春の象徴でさえあった。ノヴァーリスの右のことばは「フラグメンテ」の中にあるが志村さんは「青い花」という視覚的な題名にひかれてノヴァーリスの世界に入って行かれたのだろう。行きついた先が「色即是空」というのも面白い。
私は「色即是空」の「即」の中に「疾さ」を感じる。それで、「存在するものはみな、あてにならない」という理解の上にもうひとつ、「形あるものの、うつろうことの疾さよ」と言い添えたくなるのである。
志村さんは「植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。たとえ色は出ても、精ではないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません」と言った。
人間にもすべて周期があって、機を逸すれば命のさかりの色を出すことはできないと思われる。命そのものも、あっというまに過ぎ去ってしまうのだ。
底本::
著名: 「般若心経」講義
著者: 紀野一義
発行所: PHP研究所
発行: 1987年3月16日第1版発行
発行: 1995年5月8日第1版16刷
国際標準図書番号: ISBN4-569-56409-7
入力::
入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)
入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A
編集機: Apple Macintosh Performa 5280
入力日: 2000年11月03日