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西暦2017年(平成29年)12月16日土曜日16時2分26秒(日本標準時)
皇紀二千六百七拾七年丁酉 神無月・旧十月大 廿九日丁丑
ユリウス日:2458103.793 太陽視黄経:264.515 月齢:27.806 Ver.2017

邪説・西行のお仕事

要旨:2002年07月23日現在の結論(宗旨替えする場合があります)
  1. 初度陸奥行は流刑僧見回り。(後藤利雄氏の説)
  2. 「古今和歌集」三番は藤原定家の改ざん。
    「古今和歌集」三番は藤原一家の書写ミス。追記1
    「古今和歌集」三番はやはり藤原定家の改ざん。追記13
  3. 西行の行動範囲は中央構造線と一致。
    寺院建築施主の依頼による貴金属調達交渉が公務。
    詠歌はあくまで趣味もしくは偽装。
  4. 西行の陸奥行は山岳修行者ネットワークの支援があった。
  5. 重源の伊勢神宮参詣団の中に西行がいた可能性が大。
  6. 3.より西行九州下向の可能性を演繹。
  7. アトピーの原因は銀・錫・亜鉛アマルガム。(島津恒敏医師の説)追記5

0.初度陸奥修行の目的

>  0453
>  奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥国へつかはされしに、
>  中尊と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、いと哀なり、
>  かかることはかたきことなり、命あらば物がたりにもせんと申して、
>  遠国述懐と申すことをよみ侍りしに
> 涙をば衣川にぞながしつるふるきみやこをおもひ出でつつ
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「西行法師家集」より)

後藤利雄氏は、

> 第二次陸奥行の西行の役目は、東大寺再建の為の勧進にあつた、
> 第一次の場合も、何らかの公的な役目を帯びていて、
> 修行や歌枕探訪は二義的な目的でたつたのではないかそういう目で見て、
> 私が「出羽の西行」で出した結論は、
> その頃、陸奥へ流されていた興福寺の悪僧十五人の見回り役で、
> あつただろう、と言う事であつた。

という説を唱えられていました。公務であれば旅費や食費の心配もありません。西行の旅は全て「お仕事」だったのではないか?という邪推が頭をもたげはじめました。

後藤利雄:
大正11年、山形県最上郡最上町に生まれる。
昭和23年、東京大学文学部卒。山形大学人文学部教授。(国文学)を経て、同大学名誉教授。
平成13年6月、死去。
山形の風景/高橋敬二氏  三百坊その2

1.よしよし「佳乃」「吉野」に何故入り浸っていたの西行さん?

>  0011
> かすまずはなにをか春とおもはましまだゆききえぬみよしのの山
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)

「新訂山家集」中「よしの」が和歌に詠み込まれている数は60首に上ります。(注1:「山家集の研究」/阿部和雄氏「吉野の歌」による) 直接詠み込まれていないものを含めると、相当の数になるはずです。 西行は何故「吉野」に入り浸っていたのでしょうか。 国文や歴史の玄人は「厭世」「修行」等々を持ち出します。 果たしてその程度の理由でこもってしまえるものなのでしょうか。 邪推がさらに増大してきました。ひょっとして「お仕事」だった?

> 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
> これは信じていいことなんだよ。
> なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
> 俺はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。
> しかしいまやっとわかるときが来た。
> 桜の樹の下には屍体が埋まっている。
> これは信じていいことだ。
(梶井基次郎『桜の樹の下には』より)

信じていいことかどうかはともかく、梶井基次郎先生もこうおっしゃっています。吉野山には何か埋まっているに違いありません。

2.何宗なのですかあなたはいったい西行さん?

各地の伝承を総合すると西行は「勝持寺」で出家し「弘川寺」で没したというところで落ち着いているようです。 「勝持寺」は白鳳八年(680)天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、延暦十年(791)伝教大師(最澄)によって再建された薬師如来をご本尊とする「天台宗」のお寺です。 「弘川寺」は天智天皇の4年(665)役行者によって開かれた薬師如来をご本尊とする「真言宗醍醐派」のお寺です。 宗旨換えでもしたのでしょうか、宗派が違います。「東大寺」の「六宗兼学」の例もありますので、他宗との往来は比較的自由だったのかもしれません。この辺のところは本稿の焦点ではありませんので深入りしませんが、興味深いところです。 ここで、想起していただきたいのは、「山家集」雑の部での弘法大師へのストーカーの如き執着です。 四国修行での一連の作品群ですが、詞書も比較的長く、非常に力が入っています。
>  1369
>  大師のむまれさせ給ひたる所とて、めぐりのしまはして、
>  そのしるしにまつのたてりけるをみて
> あはれなりおなじの山にたてる木のかかるしるしの契りありける
>  1370
>  又ある本に
>  まんだらじの行だうどころへのぼるは、よの大事にて、手をたてたるやうなり、
>  大師の、御経かきてうづませをりましたるやまのみねなり、
>  ばうのそとは、一丈ばかりなるだんつきてたてられたり、
>  それへ日ごとにのぼらせおはしまして、行道しをりましけると、
>  申しつたへたり、めぐり行道すべきやうに、だんも二重につきまはされたり、
>  のぼるほどのあやふさ、ことに大事なり、かまへてはひまはりつきて
> めぐりあはんことのちぎりりぞ有りがたききびしき山のちかひみるにも
>  1371
>  やがてそれが上は、大師の、御師にあひまゐらせさせをりましたるみねなり、
>  わがはいしさと、その山をば申すなり、その辺の人は、
>  わがはいしとぞ申しならひたる、山もじをばすてて、申さず、
>  又ふでの山ともなづけたり、とほくてみればふでににて、
>  まろまろと山のみねのさきのとがりたるやうなるを、申しならはしたるなめり、
>  行道どころより、かまへてかきつきのぼりて、みねにまゐりたれば、
>  師にあはせおはしましたる所のしるしに、たふをたておはしましたりけり、
>  たふのいしずゑ、はかりなくおほきなり、
>  高野の大たふなどばかりなりけるたふのあととみゆ、
>  こけはふかくうづみたれども、いしおほきにして、あらはに見ゆ、
>  ふでのやまと申すなにつきて
> ふでの山にかきのぼりてもみつるかなこけのしたなる岩のけしきを
>  善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かきぐせられたりき、
>  大師の御てなどもおはしましき、四の門のがく少少われて、
>  おほかたはたがはずして侍りき、すゑにこそいかがなりなんずらんと、
>  おぼつかなくおぼえ侍りしか
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)

また、一時期高野山にいた事も確実です。
>  1198
>  入道寂然、大原に住み侍りけるに、高野よりつかはしける
> やまふかみさこそあらめときこえつつおとあはれなる谷の川水
(以下略)
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)
これらを根拠に、西行は最終的に「真言宗」の僧であったという見方をされたりします。

踊る巫女の世界/踊る巫女氏  小塩山 大原院 勝持寺  龍池山 弘川寺

2.1 高野山つながりでちょっと脱線

>  さて歌はいかやうによむべきぞととひ申しゝかば、和歌はうるはしく可詠なり。
>  古今集の風體を本としてよむべし。
>  中にも雜の部を常に可見。但、古今にもうけられぬ體の歌少々あり。
>  古今の歌なればとて、その體をば詠ずべからず。
>  心にも付きて優におぼえむ其風體の風理をよむべしと侍りしに、
>  なほ何れの歌どもをか殊には本とすべきと申しゝかば、空にはいかゞ。
>  さるにても少々おぼゆるをとて、
> 春霞たゝるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつゝ
>  此歌たてるやいづこと云ふ人もあるを、上人はたゝるやいづこと侍りしなり。
(蓮阿「西行上人談抄」より)

「西行上人談抄」は仮託書であるとされていますが、西行は「たゝるやいづこ」と覚えていたのは事実ではないかと考えます。 西行は高野山にあった「古今和歌集」を読んでいたのではないかというのが根拠です。

>  0003
>  たいしらす
>          よみひとしらす
> はるかすみたゝるやいつこみよしのゝ
> よしのゝやまにゆきはふりつゝ
(古今和歌集(高野切)第一種 五島美術館蔵 より)

最古の完本・元永本古今集をみても分かるように、本来この歌は「たゝるやいつこ」であり、藤原定家書写による伊達本古今和歌集以降「たてるやいつこ」となってしまったのではないかと考えます。

>  0003
>  不知題
>           読人不知
> はるかすみたゝるやいつこみよ
> しのゝ吉野山にゆきはふり
> つゝ
(元永本古今集 国立博物館蔵 より)

>  0003
>  題しらす よみ人しらす
> 春霞たてるやいつこみよしのゝよしのゝ山に雪はふりつゝ
(伊達本古今和歌集 個人蔵 より)

3.真言宗といえば・・・割合有名な高野山の謎

高野山真言宗は空海によって開かれました。なんだか怪しげな説話が残っているそうです。
以下、神奈備にようこそ!瀬藤禎祥氏 の  丹生都比売伝承より引用します。
> 弘仁七年(816年)空海は嵯峨天皇から高野山を賜った。
> 高野山の地を空海が丹生都比売から譲り受ける説話は二種類ある。
>
> 丹生明神の土地譲り 空海が霊地を求めて大和国宇智郡まで来たとき
> 南山の犬飼なる大男にあった。
> 大男の協力で大小二匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で一泊した。
> そこに一人の山民が現れ空海を山へ導いた。
> 山の王、丹生明神・天野宮の神であった。
> この宮の託宣により丹生明神は自分の神領を空海に献じた。
>
> 借用書の説話
> 弘法大師は高野明神から十年間の期限付きで神領地を借り受けたが、
> その後密かに十の上に点を加えて千とした。
> 高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応じなかったと云う。
>
> 借用書の説話2
> 千年の借用書で借り受けたが、白ネズミが千の文字を食い破ったので、
> 永久に借り受け、返還せずとも良くなった。
以上引用。
いずれにしてもすごい(ひどい)話である。これじゃぁ詐欺だ。
ここで注目したいのは、「丹生都比売」です。 辰砂であり、硫化水銀を指します。 「丹生」は全国で「辰砂」を採掘する一族の名前で、空海自身もこの一族と関係が深いのだそうで、 空海は辰砂(水銀)鉱脈を狙って高野山真言宗を開いたというのも割合有名な話だそうです。
四国八十八霊場と辰砂鉱脈も何故か一致しているとの事。更にお遍路さんに紛れた辰砂運搬人がいたというのだから驚き。

注2:平林寺の不思議/斎藤彰氏 (3)空海上人と水銀

注3:真気塾  気よもやまばなし「中央構造線」

注4:大鹿村中央構造線博物館   中央構造線ってなあに?

に【土・丹】〔名〕
1. つち。
2. 赤い色の土。また、辰砂(しんしゃ)あるは、赤い色の顔料。あかに。*古事記-下・歌謡「物部の 我が夫子(せこ)が 取り=ける 大刀の手上に 丹(に)画き著け」*十巻本和名抄-五「丹砂 考声切韻云丹砂<丹音都寒反 邇>似朱砂而不鮮明者也」*浜松中納言-一「口びるにはと云ふもの塗りたるやうに」*方丈記「薪の中に、赤きに着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを」
3. 赤い色。また、赤い色をしたもの。

しんしゃ【辰砂・辰沙】〔名〕
1. 水銀の硫化鉱物。特徴ある紅色の土状または塊状物。六方晶系。水銀の原料鉱物として重要。古くから顔料の朱としても用いられた。中国の辰州から産したのでこの名がある。朱砂。丹砂。丹朱。*太平記-二五・宮方怨霊会六本杉事「風を治する薬には、牛黄金虎丹、辰沙、天麻円を合せて御療治候べしと申す」*運歩色葉「辰砂 シンシャ」*書言字考節用集-二「辰沙 シンシャ 本名丹沙。又云朱沙。葢出支那辰州。故名辰沙」*浮世草子・真実伊勢物語-ニ・一「是はしんしゃさんせうのこをてうじあぶらにてねりまぜ」*大和本草-三「=(石+朱)砂 辰州より出るを良とす。故辰砂と云。本名は丹砂と云」
2. 銅で色づけした鮮紅色の釉(うわぐすり)。

おしろい【白粉】〔名〕(「御白い」の意)
1. 顔や肌に塗って色白に美しく見せる化粧料。粉白粉、水白粉、練り白粉、紙白粉などの種類がある。日本では持統天皇六年(692)に観成が唐にならい、初めて鉛で作ったと伝えられる。古くは鉛を焼いたり、糯(もちごめ)の粉末を用いたこともあるが(延喜式-三七・典薬寮)、平安時代には水銀製のもの(伊勢白粉)も現われた。明治三〇年代に鉛毒を恐れて無鉛白粉が作られた。しろいもの。はふに。
2. 「おしろいばな(白粉花)」の略。
3. 白壁の土蔵をいう、盗人仲間の隠語。
  類:べにを付ける:放火すること

水銀の工業的製法
水銀は遊離の状態で産出することもあるが、主としてシンシャ HgS の形で産出する。シンシャより水銀を製するには、立テ形炉、へレショッフバイ焼炉あるいは回転炉などによって、空気還元製錬を行ない、 S は SO とし、遊離したHg蒸気は凝結室に導いて凝集させる:
    HgS + O → SO + Hg
この Hg の中には Cu、Pb、Zn、Sn、Bi その他の不純物が含まれているから、これに空気を吹き込み、不純物としての全属を酸化し、希硝酸を加えて振トウ後、可溶解分を溶解させ、水洗後ナメシ革でロ過する。しかしこの方法では、 Au、Ag などは分離できない。これらを更に分離しようとするとき、またいっそう水銀を精製するときには減圧蒸留を行なう。(一条美智夫)

金合金
純金はきわめて柔らかいので、使用条件に合ったカタサと種々の色調変化を与えるために合金の状態で使用される場合が多い。 1)〜5) 省略
6) 金と水銀は非常に合金をつくりやすく金に塗りつけるだけで金アマルガムを形成する。ペースト状のAu10%、Hg90%のアマルガムは塗りつけ加熱して金の焼付ケを行ない装飾用に使用される。(西川精一)
(共立出版株式会社 「化学大辞典 縮刷版」ISBN4-320-04015-5〜 より)

4.西行の西国修行と中央構造線との関係を邪推する

西行の西国修行の足取りは、中央構造線と一致しています。空海が水銀鉱脈上に高野山や四国八十八霊場を開き、西行は弘法大師を慕って四国へ渡った訳ですから当然と言えば当然の帰結とも言えます。が、西行自ら水銀を採掘をするということは論外としても、水銀採掘者との交渉のようなことを行っていたと仮定すれば、「弘法大師を敬愛する和歌詠みの僧」という立場は絶好の隠れ蓑となります。
更に、吉野ごもりの説明もついてしまいます。吉野も水銀の鉱脈なのです。大峰修行も、怪しいぞ!
前出・注2より
> 〇空海上人 山岳修行者と交流する。
>   資源探査のため山中を走り回っていた空海上人は山岳修行者と交流を結び、
>  彼等のネットワ-クを利用して探査の領域を広げていきました。
>
>  ※山岳修行者修験者による金銀などの鉱物採掘の歴史は古く、
>  そして継続の期間も長期に続きました。後年、奥州平泉の藤原氏を頼って、
>  義経が落ち延びて行った旅は山岳修行者のネットワ-クがあればこそ
>  可能だったと聞いた事があります。
>  平泉の藤原氏は山師の大ボスで四方に張り巡らしたネットワ-クを自在に操り、
>  それによって金鉱脈をがっちり握り栄華の限りを尽くしたとなっているようです。
>  義経主従は藤原氏の命令に従いこのネットワ-クを最大限利用する事が出来たのです。
>  無防備に近い義経一行がその利用なしには平泉まで到達する事は
>  絶対に不可能であったと云われています。
>
> 〇空海上人は水銀に関する知識を吉野で修得しその利用について
>  強力に実験実践したとされています。
>   又、水銀を基にして作られる「丹薬」は不老不死のクスリとして利用され、
>  空海上人は吉野という道教的な実践の場でそれを有効に活かしてきたと云われ
>  ています。
>
おおっ!※のところは、西行の東国修行との関連まで出てきそうな雰囲気です。
西行も山岳修行者のネットワークを使って陸奥への旅をした?魚名流藤原氏九代目の佐藤さんだしねぇ。まぁこれは別の機会にしましょう。

熊野詣も、怪しいぞ!
伊勢妙見顕彰会 の  『日蓮聖人「立教開宗」における妙見尊と虚空蔵菩薩の関係』/石川 修道(現代宗教研究所研究員)、 「7、清澄山は産鉄地の信仰拠点」 によると、
> 丹生(にゅう)は朱で硫化水銀である。それは縄文土器いらい、
> 塗料や染料に親しまれたばかりか、銅鏡の光沢面の磨研に使われ、
> あるいは石棺の充填物として、また薬用として用いられ、
> アマルガムを利用して鍍金(めっき)したり、黄金を精錬した。
> 勝浦市芳賀に丹生神社がある。
> 初期日本の金属冶金は鉄、銅でなく水銀だった。
> 硫化水銀の蒸気が固まったものが水銀鉱床である。
> 朱は単に生活に利用されただけでなく、
> 当事の呪術的悪霊を鎮める御霊(みたま)信仰の対象として考えられていた。
> 神武天皇の熊野より大和へ入るルートはみんな水銀採りの跡だった。
とあります。
当時は寺院建造物豪華絢爛のご時世ですから、青銅製の仏像などは見向きもされません。やはり金鍍金が必須です。そうなると、砂金の調達はもちろん、アマルガム法の金鍍金のための水銀の調達も必要となります。寺院建築施主は八方手を尽くして生産者とのつながりを確保しようとするはずです。その為の使者〜交渉人として西行の様な存在は貴重であったはずです。事実、治承4年(1180)12月28日東大寺が焼失後、大勧進職・重源の依頼を受けた西行は平泉に砂金の勧進に出かけています。
以下、華厳宗大本山東大寺 「東大寺のあゆみ」より引用
> ・・・・
>  やがて平安時代末、源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め、
> この兵火の為に治承4年(1180)12月28日、
> 東大寺も大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼失してしまいました。
>
> ■  焼失した大仏殿を中心とする東大寺伽藍の復興造営は、
> 俊乗房重源によって翌年から着手されるところとなります。
>
>  俊乗房重源は大勧進職として全国を勧進する一方で
> 源頼朝公の援助も得て復興を進め、
> 文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養を挙行、
> 建久6年(1195)には後鳥羽上皇や源頼朝公の臨席も得て大仏殿落慶供養、
> さらに、建仁3年(1203)には後鳥羽上皇の行幸を得て東大寺総供養を
> 行なうことができました。
・・・・
以上引用。

以下「吾妻鏡」より抜粋

> 元暦二年・三月七日
>   庚寅 東大寺修造事、殊可抽丹誠之由、武
>  衛、被遣御書於南都衆徒中又被送奉加物於大勸
>  進重源聖人訖所謂八木一萬石、沙金一千兩、上絹
>  一千疋〈云云〉。
>  御書云、
>  東大寺事。
>  右當寺者、破滅平家之亂逆、遂逢回禄之厄難、佛
>  像爲灰燼、僧徒及没亡積惡之至、比類少之者歟
>  殊以所歎思給也於今者、如舊令遂修複造營、可
>  被奉祈鎮護國家也世縱雖及澆季、君於令施舜
>  徳者、 王法佛法、共以繁昌候歟御沙汰之条、 
>  法皇定思食知候歟然而如當時者、朝敵追討之
>  間、依無他事、若令遅々候歟且又當寺事、可致丁
>  寧之由、所令相存候也仍勒状如件、
>    三月七日    前右兵衛佐源朝臣

> 文治二年・八月十五日
>   己丑 二品、御參詣鶴岡宮而老僧一人
>  徘徊鳥居邊恠之、以景季令問名字給之處、佐藤兵
>  衛尉憲清法師也今號西行〈云々〉仍奉幣以後心靜遂
>  謁見、可談和歌事之由、被仰遣西行令申承之由、廻
>  宮寺、奉法施二品爲召彼人、早速還御則招引營中
>  及御芳談此間、就歌道並弓馬事、條々有被尋仰事
>  西行申云、弓馬事者在俗之當初、憖雖傳家風、保延
>  三年八月遁世之時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承
>  兵法焼失依爲罪業因、其事曽以不殘留心底皆忘
>  却了詠歌者、對花月、動感之折節、僅作卅一字許也
>  全不知奥旨、然者是彼無所欲報申〈云々〉然而恩問、不
>  等閑之間、於弓馬事者、具以申之即令俊兼、記置其
>  詞給縡被専終夜〈云々〉
> 文治二年・八月十六日
>   庚寅 午尅、西行上人退出頻雖抑留、敢
>  不拘之二品、以銀作猫、被充贈物上人、乍拝領之、於
>  門外、與放遊嬰兒〈云々〉是請重源上人約諾、東大寺料
>  爲勸進沙金、赴奥州、以此便路、巡礼鶴岡〈云々〉陸奥守
>  秀衡入道者、上人一族也

以上、国文学研究資料館 の  吾妻鏡本文データ より抜粋

5.駄目押し・西行さんは何故「伊勢神宮」に擦り寄るのか?

>  0597.1(板本)
>  太神宮御祭日よめるとあり
> 何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「西行法師家集」より)

本地垂迹説華やかなご時世とはいえ、西行さんの肩入れはただものではありません。
>  1223
>  伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりてよみける
> さかきばに心をかけんゆふしでておもへば神もほとけなりけり
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)

僧や尼、医師など、頭をまるめた人は拝殿には近付けないというあしらいを受けながらも西行さんの伊勢神宮への思い入れは強く、挙句には「御裳濯河歌合」「宮河歌合」まで奉納してしまう始末です。

お察しの通り、当時伊勢は日本最大の水銀の産地でした。現在の三重県多気郡勢和村大字丹生です(そのまんま)。 また、三重県松阪市射和町は水銀精錬・加工・中継地として栄えていました。「伊勢神宮」圏内です。建築材の装飾及び防腐・防虫に丹(朱)が使われていたのは前述の通りです。また、後に「伊勢おしろい」や更に時代は下って梅毒の治療薬「軽粉」の産地としても有名でした。周辺の利権を「伊勢神宮」に押さえられていましたので、水銀が喉から手が出る位欲しい仏教陣営としては何とか手を打たなければなりません。そこで出てきた苦肉の策が本地垂迹なのではないでしょうか。「神様も仏様なんだからさぁ・・・仲良くしましょうよぉ。」
話は戻りますが、高野澄氏の「伊勢神宮の謎」によると、文治2年4月重源は僧侶60人を含む700人を引き連れ「伊勢神宮」を参詣しています。この時の様子は五味文彦氏の「大仏再建」に詳しく載っています。 東大寺復興祈願の為だったといいます。その年の8月、西行は前出の平泉行きの途中、鎌倉に出没していますので、時期的にみて、60名の中の僧の一人が西行であった可能性は大です。それはさておき、高野氏は重源の「伊勢神宮」参詣の本当の理由を、
>  つまり行基は丹生の水銀が欲しかった。
>  行基が本当に伊勢神宮に参詣したのかどうかはさておき、
> 大仏をつくるには水銀を手に入れなければならず、
> その水銀を多量に産出するのは伊勢の丹生だった。
>  重源が伊勢神宮に参詣したのもおなじ理由にちがいない、
> 水銀が欲しかったのである。
と結論付けています。

こうして考えてくると、西行が主に貴金属関連の交渉人と仮定すると多くの疑問が解消します。 西行のただならぬ「伊勢神宮」への擦り寄りも、「二見」結庵も、伊勢各地での詠歌も、貴金属調達の交渉の一環と考えると良いのです。


7.その他の中央構造線上の怪しい場所

怪しいぞ!答志島!
>  1382
>  伊せのたふしと申す島には、こいしのしろのかぎり侍る浜にて、
>  くろはひとつもまじらず、むかひてすがじまと申すは、
>  くろのかぎり侍るなり
> すがじまやたふしのこいしわけかへてくろしろまぜよ浦の浜かぜ
>  1383
> さきしまのこいしのしろをたか波のたふしの浜に打ちよせてける
>  1384
> からすざきのはまのこいしと思ふかなしろもまじらぬすが島のくろ
>  1385
> あはせばやさぎとからすとごをうたばたふしすが島くろしろのはま
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)

前出・注3より
> 中央構造線を境に、南側(右側)は西南日本外帯三波川帯の黒色片岩、
> 北側(左側)は西南日本内帯領家帯の圧砕岩(マイクロナイト)です。
(飯高町月出露頭の現地にある説明板)

怪しいぞ!伊良湖崎!
>  1387
>  いらこへわりたりけるに、いがひと申すはまぐりに、あこやのむねと侍るなり、
>  それをとりたるからをたかくつみおきたりけるをみて
> あこやとるいがひのからをつみおきてたからのあとをみするなりけり
(以下略)
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)

7.外挿・九州修行

以上の仮説を発展させると、西行さんは中央構造線の西端の九州地方へも足をのばしていたと考えるのが自然です。 熊本県の八代、佐賀県藤津郡嬉野、大分県大分市坂ノ市町や丹生(!)などは水銀鉱脈ですから候補に挙げられるでしょう。 事実、西行伝承は九州の温泉にも存在します。
一方、中央構造線の東側、新城市近辺から諏訪湖までの地域もとっても怪しいけれど未調査。
>  0607
>  寄氷恋
> 春をまつすはのわたりもあるものをいつをかぎりにすべきつららぞ
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編T 歌集 「山家集」より)
極論をすれば、温泉の出るところは一応水銀鉱脈の候補となりますので、火山列島である日本全国の温泉があやしいことになります。こころなしか温泉での西行伝承が多いのは気のせいでしょうか。「交渉人西行」はあなたの町の温泉にも調査にやってきていたのかも知れません。


どなたか、西行交渉人説をネタにして小説書きません?談応。

この仮説は、この原稿のような順番で発想したものではありません。 初めは伊勢神宮式年遷宮を調べていたのです。こちらは、「太陰暦と太陽暦が同期するのが19.7年毎だから」というなんともつまらない結論になってしまいました。脱線の結果、 伊勢神宮->丹生神社->丹生山成就院神宮寺->弘法大師空海->高野山->吉野->大峰->熊野->四国八十八霊場->中央構造線->二見->答志島->伊良湖崎->諏訪湖->九州? という興味深い関連性を発見できました。また、前出、高野澄氏の「伊勢神宮の謎」にたくさんのインスピレーションを与えていただいたことに感謝いたします。
第一稿:2002年7月23日 新渡戸広明

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