Title 附録 西行論  Author 藤岡作太郎著  Page 西行論 0001  Section 第一章 山家集  Description 權家に謟はず、聞達を求めず、貧苦に甘んじて、一生を羈旅の間に送る、さ れど聲名なほ臺閣の間に高く、天子將軍もその筆に接し、その説を聞く を喜ぶ。當時第一と稱せられたる人も、つれなく歳月の波に碎かれて、そ の譽は跡を留めざるに、西行ひとり人麿の再誕と稱せられ、斯道の名匠 と仰がるゝこと、古今ともに渝ることなし。從うてその傳記といふもの も少からずといへども、余輩が西行を景慕するは、武人としてにあらず、 僧侶としてにあらず、散文家としてにあらず、たゞその歌人たるが爲な り。最もよく西行を知るには、歷史傳説の如きはさもあらばあれ、直下に  Page 西行論 0002 その作歌に接するに如くはなし。 普く西行の作歌を知らんとするには、何の書に依るべきか。釋固淨の増 補山家集抄に、その書名とこれに載せたる歌の數とを擧げたり。その數 の一も誤なきか如何は、未だ調べ見ずといへども、便利なれば次にこれ を借る。  Indent 山家集一千五百七十一首斗[上卷に七百廿三首、此中、他人の歌二首あり、下卷](著者云、             [に八百四十八首、此中、七十首斗は寂然等のなり。] 山家集類題には「在來の山家集歌數千五百六十九首あり、その中に戀 の歌一首秋の部に重出せり、これを除て千五百六十八首」といへり。)     ニ 西行家集五百四十位置首[他一]            [首 ]    ニ 千載集入し歌十八首      メ     ニハ 十三代集合百四十二首[内五十五首は玉葉に有、作者部類](著者云、參照の爲、和歌           [に所載の歌數は誤れり、寫誤歟。]  Page 西行論 0003 作者部類にあげたる十三代集の歌數を掲ぐ。新勅撰、十一。續後撰、十三 續古今、九。續拾遺、九。新後撰、十二。玉葉、五十二。續千載、四。續後拾遺、三。風雅、 十三。新千載、四。新拾遺、九。新後拾遺、三。新續拾遺、三。)     ニ 自賛歌集十首    ニヲ 撰集抄自所載九首[外に他五十二首、連 ]      レ   [歌は六句、他の句三。]    ニ 夫木抄三百八十五首[同兩部へ入し歌六 ]          [首斗同歌なり。云々]     ニ 四季物語七十二三首[他人歌]          [二三首]        ニ 讚岐歌枕藻鹽草三十五首[他五]            [首 ]    ニ 松葉集百六十二首[兩三部に同 ]         [歌十餘。云々]     ニル 諸集諸傳散玉歌[諸歌仙家集、方與]        [集、春雨抄等也。] 御裳濯河歌合七十二首、是は自撰なり、清書は慈鎭和尚。 宮河歌合七十二首、是も自撰なり、[奉納十二卷と侍れば、此二部の外猶 ]…これらに                 [十卷、同數ならば七八百首なるべし。]  Page 西行論 0004 散在せるも千首に近かるべけれども、多は同歌の所々へ出たりけれ ば、山家に合すとも二千首に滿ざるべし。處々勸進の百首歌、彼奉納十 卷等は世に弘ざるこそ口をしく侍れ。……在俗の時の歌も數多有べ し、法臘五十六年[著者云、年數は撰集抄に ]の間の歌も僅に二千にてやまんや。         [よれるなり、從ひがたし。] 行脚の身一處不在なれば、家集とて打つゞき自記せらるゝ亊もなく、 もれたる歌多かるべし。  Description 増補山家集抄に記するところかくの如し、その中、西行の歌を一つに集 めて、最も考究に便なるは、いふまでもなくその家集なり。西行の家集を 山家集といふ、異本卷下に「遁世の後、山家にてよみ侍りける」と題して、  山里は庭の梢の音までも、世をすさみたるけしきなるかな。 とあり、その外、集中、山居の吟空少からず、また流布本卷下の下に「この歌ど も山里なる人の語るに從ひてかきたるなり、されば僻亊どもや」などい  Page 西行論 0005 へるによりて、後人のつけたるにや。惜しいかな、この家集には、未だ世に 許されたる定本なし。概していふに、これまで行はれたるもの二本あり。 その一種は六家集本[藤原俊成の長秋詠草、慈鎭和尚の拾玉集、藤原良經の秋篠月清集、藤原定家の拾]          [遺愚草、藤原家隆の壬二集、及び西行法師の山家集を六家集と稱し、刊行して世] [に行 ]にして、上下の二卷に別つ。(下をまた上下に別けたれども、册はやは [はる。] り一つに併せたり。)山家集とて從來普通に行はれたる刊本も、六家集の うちより拔きて單行本としたるなり。(さきに一千五百七十一首斗とい へるもの即ち是。)明治に至りて翻刻したるものには、佐々木信綱氏の校 訂せる歌學全書第八編のうちなるもの、覆刻叢書の第二卷として出で たるもの、幸田露伴氏校訂の名著文庫第八卷、及び千勝義重氏の山家集 評釋あり、いづれも六家集本の外に出でず。されば便宜の爲これらを総 括して、流布本といふべし。この流布本は誤脱少からず、不審の歌も見ゆ、 後人の僻わざも交りたるべくして、信じ難きところあり。既に増補山家  Page 西行論 0006 集抄にも、「六歌仙の集中に、唯此山家集のみ後人の撰み集めしと見ゆ。定 家卿の家集は自撰擇の上、伯父河内前司[親]に清書を誂へ、慈鎭和尚の集                   [行] は嘉暦の撰聚、貞和の清撰、[尊圓親]瑚子丸の筆、玄旨法印の比校等、皆慥に侍              [王記之] けるに、此集のみ淺間しう不沙汰に侍けん。……歌の年代の前後し、斯彼 の入亂れしは、諸處山家の自撰の小册或は家々文庫の一首をも後に拾 び集めし成べし。云々」といひ、その外、前人のこれを非難せしもの少から                                 【ママ】 ず。されど外に完本も傳はらねば、この書のみ專ら勢を得たるなるべし。』 他の一種は西行法師家集と題したるものなり。(さきに五百四十一首と いへるもの。)或は二卷、或は三卷、或は四卷に別ちたるもあれど、内容はい づれも同じものなりといふ。自ら藏するところの寫本は、即ちこの本を 寫したるものならん。その奧書に云く、  Indent 或人、西行法師の家の集歌とて密なはしおく亊、年久し。予が云宜成哉、  Page 西行論 0007   【亊】 【本字叓異字体】【弁:古形略体】 秘せる㕝、しかれど卞和が玉も人に見せしによりてこそ、其光をも磨 し出せり、今此集も諸人にあまねく識知せしめば、などか世の龜鏡と もならんや、且又火災の&M069425;それあり、甲梓に鏤よとすゝめて開版し畢 ぬ。  于時延寶二林鐘日                       南山䩭客一無軒道治  Description とあり、余が見たる板本は半紙形四卷にして、同じ奧書はあれど、南山云 々の署名なく、書堂永田長兵衞開板とあり。 内閣文庫にまた西行法師家集と題したる一册の寫本ありて、和學講談 所、淺草文庫等の印あり、その奧書は、  Indent 此西行法師家集、去元中年中、於吉野以或家本書寫者也。                二 一二  一  應永二十年癸巳二月十八日            藤原 判  Page 西行論 0008  Description とありて、次に一本の奧書を擧げ、更にこれかれの奧書ある二種の本に よりて寫せる由の奧書あり、古き寫本にはあらじといへども、そのもと は南朝に仕へたる臣下などの手に出でしならん。この寫本もまた前に いへる家集と同種のものにして、これらを総括して家集本と稱せん。こ の家集本は、余が見たる限にては、至るところ誤脱に滿ちて、殆ど讀むに 堪へず、その歌數の少きと誤脱の多きとを以てにや、從來世に行はるゝ こと稀なり。西行の詠とて、人口に膾炙せる歌、  何亊の&M069425;はしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるゝ。 は、類聚名物考に、撰集、家集、その他西行物語等ににも見&M069452;ず、唯人の口碑に 云ひ傳へし所のみ、未だ、出所を考へずといへり。されど家集本の終には、 明かにこれを載せたることを思へば、この本の廣く行はれず、名物考の 編者の眼にも觸れざりしことを知るに足らん。群書一覽などにも、歌尤  Page 西行論 0009 も少く、誤多き由を一言せるのみ。また山家心中抄なるものあり、こは山 家集の内より拔き出でたるものなりといふ。[大日本史料]されど今いかなる                     [所載奧書 ] ところに存するかを知らず。 なほ別に西行自筆の山家集を寫せる本として、讀書家をして埀涎に堪 へざらしむるものあり。これについて委しく世に紹介したるは、群書一 覽を始とすべし。一覽の著者尾崎雅嘉は、その著に異本山家集[寫本]一卷 の目を掲げ、敍して云く、  予が藏するところの古寫本にて、刊本よりは歌すくなし。奧書に云、此集、  周嗣禪師不慮被相傳西行上人自筆之處、於法勝寺僧房燒失間、尋他本         レ二      一   二    一    二 一  書寫之。   二 一   けぶりだに跡なき浦のもしほ草、又かきおくを哀とぞ見る。頓阿  此西行上人集、蔡花園上人、此本卷始和歌十一首銘奧書歌副一首、新所                         二  一二 一  Page 西行論 0010  被灑翰墨也。雖未消遺恨之心灰、聊擬殘芳之手澤而已。觀應二年七月日 レレ二 一  レレ二    一  二    一  修行者周嗣判○雅嘉案ずるに、草庵集にこの歌入りて、こと書に周嗣  西行上人自筆の山家集を傳へて侍るを、法勝寺僧房の火の時燒き侍  りて後、又料紙など元の如くに違へず書きて侍りしを、見せ侍りし、其  の奧に書き付け侍りしとあり。又按ずるに、頓阿の高野日記に云、西行  上人自ら書きたまへる山家集を、周嗣傳へられけるを、法勝寺僧房の  火の時燒け侍りける。その後、西行の筆に露違はず書かれて侍りしを、  見せられたまひしなり云々。これらを考へ合せて、愈々予が藏本の眞の  山家集なることを知れり、尤も上人自撰の集なること疑なし。○周嗣  は禪僧にて、新千載集にも歌入りて、頓阿時代の人、五玉集の中の一人  なり。 増補山家集抄にこの本のことを言ひたれど、周嗣をさへ周制と幾所も  Page 西行論 0011 誤りたるなどを思へば、たゞ草庵集等によりたるのみにて、實際の本を 見たるにはあらざるべく、山家集類題には「或人秘藏して頓阿法師のも たりし山家集といふあり」と一言したれど、これらを校合したる本は約 束のみして遂に出さず。かくてこの異本は群書一覽に紹介せられたる のみにして、また隱れて世に顯はれず。覆刻叢書に佐々木信綱氏は「何處 にか散りぼひゆきけむ」といはれ、大日本史料がその奧書を引くにも、原 本は得難しとて、一覽に依りたり。しかるに先つ頃はからずも余が手に 入りたる本は、即ちこの周嗣所持の本を寫せるものにして、足利氏末季 頃の寫本なるべし。尾崎氏の藏書印なしといへども、そのやゝ久しく大 阪に傳はれることを思へば、或は一覽に予が藏本といへるものならん か、こゝに刻するところの書即ち是なり。  追記。その後、佐々木信綱氏にあひて、この本のことを語れるに、氏更に  Page 西行論 0012  書庫を探りて、一本を見出せりとて示さる。寫本一册、時代は甚だ古き  ものにあらず、夏秋の部二三枚脱落したるが、また終に頓阿、周嗣の奧  書を記し、更に左の奧書あり。   貞和四年十月頃、不慮相傳此一卷自愛無極殘生之間不可放而已。              二   一  レ     レレ                          西山隱士頓阿   此草子於鷹司高倉之蓬篳加勘校畢、不審猶多尋證本、追而有校正者       二      一二 一      二 一   二 一   也。    享徳元年十一月四日          和歌所舊生法印在判   以飛鳥井賴孝筆跡、不違一字書寫校合畢   延寳戊午年以林白水本謄之京師新寫本。 この異本を以て前にいへる兩種の本に比するに、これは家集本の部に 入るべきものとす。異本は家集本より數首多きが、「何亊のおはします」の  Page 西行論 0013 詠及び外三首は却つて見&M069452;ず、小序にも時に彼と此と文字の相違ある が、大體においては二者相同じきものなり。唯異本には、追而加書西行上 人和歌と題して、法師の詠を補へるものありて、家集本にはこれなし。さ れどこの追加は後人の附加したるものなるべく、餘りに信じ難きもの とす。たとへば「後鳥[羽]院位におはしましける時、折々の行幸など思出ら れて、隱岐國へ奉りける」と題して、二首の歌あるが如き、明かに西行沒後 の亊にかゝり、その中の「みればまづ」の詠は、續千載集雜下に西音法師の 作として擧げたるものなり。とにかくに異本と家集本とはそのもと同 じきものなるを、群書一覽に、異本は山家集の原本として推稱しながら、 家集は歌數尤も少く誤多しと、一概に排し去りたるは、兩者の關係を蔑 視したるやうにて、甚だ飽かぬ心地す。されど家集本の誤脱に滿ちたる は、固より爭ふべからず、これのみにてはとても用をなし難き程なるを、  Page 西行論 0014 わが異本を得て始めてこれを訂し明らむべし。今異本を刻するに當り、 家集本は内閣文庫の本を以てこれを代表せしめて、傍らこれを參照し、 異本になき四首は補ひ置きたり。 さらば異本を以て更に流布本に比較せんか。異本の歌數はすべて五百 八十首、これに家集本によつて補へる四首を加へて、合せて五百八十四                          &M000000;    ・・・・・ 首。(外に他人の歌十七首。)その中、全く流布本に見&M069452;ざるもの百六十五首。 他は流布本と重複す。追加は百八十八首、(重出せるもの四首を除く、外に                     ・・・・ 他人の歌三首、)その中、流布本になきもの八十六首あり。流布本には他人 の詠を除きて、西行の歌殆ど千五百首、その中、異本及びその追加と重複 せるものを去れば、殘るところ九百八十首ばかり、これは異本及びその 追加になきところにして、拾遺としてこの卷に附加す。かくして西行の 詠を得ること千七百五十餘首、以てこの出家歌人の面目を覗ふに庶幾  Page 西行論 0015 からんか。 流布本は歌の數多しといへども、西行の作として古來人口に膾炙した る、  つの國の難波の春は夢なれや、蘆の枯葉に風渡るなり。  年たけてまた越ゆべしと思ひきや、命なりけり、さやの中山 及び作者が第一の自讚歌と稱せらるゝ、  風に靡く富士の煙の空にき&M069452;て、行方もしらぬわが思かな。 の如き、いづれもこれに漏れたるはいぶかしき限なるに、異本には載せ たり。兩本に通じて擧げたる歌にも、彼此異同なきにあらず、その小序も 意義の異なるあり、意義同じけれども字格句法の異なるあり、詳略の度 の頗る異なるあり。慨するに異本の歌は誤謬少く、流布本を讀みて疑は れし節の氷釋するも少からず、小序のかき方は古拙にして、流布本の整  Page 西行論 0016 へるに似ざるは、却つてその時代を先にせることを示せるが如し。され ど異本とても淨寫を重ねたるものなるべければ、おのづからその間に 誤を生じたるもあるべく、時には流布本の正しと見ゆるもあり、彼此參 考して、漸く正鵠を得るに近し。これらの例一々に擧ぐるは餘りに煩は しければ省略すべし、讀者意あらば、本文の中に校合せるに注意せよ。今                                ○ 僅かに一二を擧げんに、名著文庫本の解題に、露伴氏が道心遂年深の遂  ○        ○ ○ は逐の誤、仁和二年の和は安の誤と推斷せられし精讀の程は感ずべく、 また異本には初よりこの正しき方になり居りて、なほ二年は三年とあ り。また  何亊のとまる心のありければ、更にしも又世のいとはしき。 の詠の小序を、新古今集には「題しらず」とし、流布本には「述懷」とし、異本に は「素覺がもとにて、俊惠と罷合て、述懷し侍りし」とあり、各ゝそのいふとこ  Page 西行論 0017 ろを異にするを見るべし。 要するに異本は西行自筆の本に出でたるものといひ、觀應年間、周嗣禪 師の奧書あり、またその類本たる家集にも、元中年間、吉野にて寫せる由 の奧書あるものあれば、その山家集の原本なること明かにして、南北朝 の頃は多く流傳せしものなるべし。流布本は後人の増補せるところ少 からず、不審のことも交りたれど、僞本として棄つべき限にはあらず、取 捨して用ひたらば、これまた西行の歌集として併せ見るべきものなる と、勿論なり。 なほ西行の歌集を後人の増補訂正せるものには、前に屢々名を擧げたる 増補山家集抄及び山家集類題あり。抄は天明四年、讚岐國來光寺の僧固 淨の手に成り、流布本山家集、家集、及びその他の諸書に出でたる西行の 歌を網羅して、註釋を施せるものあり。大成せば甚だ便利なるものなる  Page 西行論 0018 べしといへども、首卷(西行上人傳等を載す)及び四季の部併せて五卷だ けに止まりしが如し。山家集類題は流布本を更に類によりて正しく別 けたるもの、文化九年、松本柳齋の編纂せるものなり。  Section 第二章 撰集抄  Description *只今入力中  End  底本::   書名:  異本 山家集   校及著: 藤岡 作太郎   發行:  本郷書院   初版:  明治三十九年十月十二日發行   再版:  明治四十一年二月十日發行  入力::   入力者: 新渡戸 廣明(info@saigyo.net)   入力機: IBM ThinkPad X31 2672-CBJ   編集機: IBM ThinkPad X31 2672-CBJ   入力日: 2009年12月13日-  校正::   校正者:   校正日: $Id: ihon_saigyoron.txt,v 1.4 2020/01/06 03:45:05 saigyo Exp $