Title  拾玉集  Author  慈円  Description  天治六年二月十六日未時、円位上人入滅臨終などまことにめでたく存生にふるまひおもはれたりしに更にかがはず、世のすゑに有りがたきよしなん申しあへり、其後よみおきたりし歌ども思ひつづけて寂蓮入道の許へ申し侍りし。  0001: 君しるやそのきさらぎといひおきてことばにおへる人の後の世  0002: 風になびくふじのけぶりにたぐひしに人の行へは空にしられて  0003: ちはやぶる神にたむくるもしほ草かきあつめつつみるぞかなしき  Description  これは、ねがはくは花の下にて山れしなんそのきさらぎのもち月のころ、とよみおきて其にだがはぬ事を世にもあはれがりけり、又、風になびくふじのけぶりの空にきえて行へもしらぬわが思ひかな、もこの二三年の程によみたり、これぞわが第一の自讃歌と申しし事を思ふなるべし。又諸社十二巻の歌合太神宮にまゐらせんといとなみしをうけとりてさたし侍りき。外宮のは一筆にかきてすでに見せ申してき。内宮のは時の手書共にかかせむとて料紙などさたする事をおもひて三首はよめるなり。  0004: 朝夕に思ひのみやる水ぐきのひさしくとはぬもろごころかな  0005: 山川にしづみしことばうかびぬるさても尚すむわが心かな  0006: もろともになぶむべかりしこの春の花も今はの比にも有るかな  0007:  返し                   寂蓮 君はよしひさしくおもへ水ぐきのむかしとならん身の行へまで  Description  じえん じゑん 【慈円】 (1155-1225) 鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。諡(おくりな)は慈鎮。四度、天台座主。歌人としても優れる。著「愚管抄」、家集「拾玉集」など。  しゅうぎょくしゅう しふぎよくしふ 【拾玉集】 歌集。七巻。慈円作、尊円親王編。1346年成立。約四六〇〇首。速吟・法楽歌を多くとどめ、多彩な僧侶歌人の性格がうかがえる。六家集の一。しゅぎょくしゅう。 大辞林 第二版  慈円 じえん 1155‐1225 (久寿 2‐嘉禄 1)  平安時代末,鎌倉時代初頭の僧侶,歌人。 《愚管抄》の著者。 摂関藤原忠通の子。 母は藤原仲光の娘加賀局。 兄の基実,基房,兼実は摂関,兼房は太政大臣になった。 生まれた翌 1156 年 (保元 1) に保元の乱が起こったが, 乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父, 敗死した頼長は叔父にあたる。 2 歳で母を,10 歳で父を失った慈円は, 65 年 (永万 1) に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり, 67 年 (仁安 2) 天台座主明雲を戒師として受戒得度した。 摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇したが, 80 年 (治承 4)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は, 世俗化した延暦寺にあきたらず,隠筒⊿したいと考えたが, 保護者であった同母兄の兼実 (九条兼実) に説得されて思いとどまった。 そのころ慈円と名を改めたものと思われる。 親幕派の代表者となった兼実は,源頼朝の力が安定するにつれて公家社会で指導力を増し, それとともに延暦寺における慈円の地位も上がった。 慈円は歌人としても認められ,宮廷でも重んぜられていたが, 92 年 (建久 3) には頼朝と兼実の推挙によって 38 歳の若さで天台座主となり, 1203 年 (建仁 3) には大僧正に任ぜられた。 しかし,兼実の政界での浮沈に応じて 4 回天台座主に任命されるというように, その地位は安定していなかった。 兼実の没後,慈円は兼実を祖とする九条家の発展に尽くし, 兼実の娘で後鳥羽上皇の后の任子,兼実の孫道家の後見となり, 道家の姉立子の順徳天皇への立后につとめた。 そうしたなかで源実朝の死後,道家の子頼経が鎌倉に迎えられ, 天皇,摂政,将軍をすべて九条家の勢力で占める体制に近づいたころが, 護持僧,歌人としても後鳥羽上皇に重んぜられていた慈円の絶頂の時期であった。 しかし後鳥羽上皇は討幕に傾き,21 年 (承久 3) 承久の乱が起こると, 慈円の計画は瓦解し,失意の慈円は, 25 年近江坂本の小島坊で没した。 没後 13 年目の 37 年 (嘉禎 3) に慈鎮和尚の名が贈られた。  僧侶として栄達をきわめた慈円は,勧学講を興し, 如法経懺法,西方懺法を行うなど,比叡山の仏法の独自性を示し, 自坊の白川坊に大懺法院 (だいせんぼういん), 吉水坊に熾盛光堂 (しじようこうどう) を建てるなど台密の復興に尽くした。 慈円は,比叡山が高い権威と大きな力を保ちえた時代の最後を飾る座主であったといえよう。 歌人としては,後鳥羽上皇の和歌所の寄人となり, 《新古今和歌集》には,西行についで 91 首もの歌が選ばれている。 慈円の歌は技巧に走らず,清明な心境を詠んだものが多く, 家集《拾玉集(しゆうぎよくしゆう) 》には4600 余首が収められている。 〈おほけなくうき世の民におほふかな我がたつそまにすみ染の袖〉は百人一首の歌として知られている。 慈円は,当時文学芸能の中心の一つであった九条家の一員として知られたために, 和歌や芸能についての説話にしばしば登場し, 慈円とつながりがあったとされる浄土教の僧も多く, 親鸞の戒師であったとも伝えられた。 しかし,現在では中世の特異な歴史書《愚管抄》の著者として, 思想史上重要な人物と考えられている。 大隅 和雄 『ネットで百科@Home』  End  親本:   慈円全集   七丈書院   1946年  底本:   NHKブックス[857]   西行の風景   桑子敏雄   日本放送協会   1999年4目25日 第一刷発行