Title  長秋詠藻  Author  藤原 俊成  Description ----  西行、西住などいふ上人どもまうできて、対花思西といふ心をよみしに 散る花を惜しむにつけて春風の吹きやる方にながめをぞする ----  西行法師高野にこもりゐて侍りしが、撰集のやうなる物すなりとききて、歌かきあつめたるものおくりて、つつみがみにかきつけたりし 花ならぬ言の葉なれどおのづから色もやあると君ひろはなむ  返し 世をすてて入りにし道の言の葉ぞあはれもふかき色は見えける ----  歌合といふことする人人の勝劣定むる事をこなたかなたよりふれつかはすことのみあるを、とかうかへさひ申しながら、いなびがたき時はおぼえぬことどもを書きつけ侍るもよしなくて、近き年よりこの方、長く誓ひたりとてせぬことになりにしを、円位ひじりといふは昔より申しかはす物なりしを、わがよ見つめたる歌どもを三十六番につがひて伊勢太神宮に奉らむずるなりとて、これなほ勝ち負けしるしてと、しひて申ししかば、おろおろ書き付けてつかはしける歌合のはしに、聖人のかきつけたりける歌 藤波を御裳濯川にせき入れて百枝の松にかけよとぞ思ふ  返しに、歌合の奥に書きつけける 藤波も御裳濯河の末なればしづえもかけよ松の百枝に   藤原ももとは大中臣なりし心にや  又おくの歌 契りおきし契りの上にそへおかむ和歌の浦路のあまのもしほ木 この道のさとりがたきを思ふにも蓮ひらけばまづ尋ね見よ  返し二首、後日送之  円位上人 和歌の浦に塩木かさぬる契りをばかけるたくもの跡にてぞみる さとりえて心の花しひらけなば尋ねぬさきに色ぞ染むべき ----  円位ひじり歌どもを伊勢内宮の歌合とて判うけ侍りし後、又同外宮の歌合とて、思ふ心あり、新少将にかならず判してと申しければ、しるしつけて侍りけるほどに、その年(去年文治五年)河内の広川といふ山寺にてわづらふことありと聞きていそぎつかはしたりしかば、かぎりなく喜び、つかはして後すこしよろしとて、年のはて比京にのぼりたりと申ししほどに、二月十六日になむかくれ侍りける、かの上人先年に桜の歌おほくよみける中に ねがはくは花の下にて春しなむその二月の望月のころ   かくよみたりしををかしく見給へしほどに、つひに二月の十六日望の日をはりとげけることいとあはれにありがたくおぼえて物にかきつけ侍る 願ひおきし花の下にて終りけりはちすの上もたがはざるらむ ----  ふじわら-のしゅんぜい ふぢはら— 【藤原俊成】 〔名は「としなり」とも〕(1114-1204) 平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。名は初め顕広。法号、釈阿。定家の父。五条三位と称された。後白河院の命により「千載和歌集」を撰進。古典主義的立場に立ち幽玄の理念を樹立、王朝和歌を統合的に継承するとともに中世和歌の出発点を築いた。歌論「古来風体抄」、家集「長秋詠藻」などのほか、書の名筆を多く遺す。  ちょうしゅうえいそう ちやうしうえいさう 【長秋詠藻】 〔「長秋」は長秋宮の略。俊成が皇后宮大夫であったところから〕歌集。三巻。藤原俊成作、自撰。1178年夏、守覚法親王の召で編纂(へんさん)、のち増補。六家集の一。 大辞林 第二版 藤原俊成 ふじわらのとしなり 1114‐1204 (永久 2‐元久 1)  平安末期の歌人。 〈しゅんぜい〉ともよばれる。 参議俊忠の子。 幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが, 54 歳から父の御子左家(みこひだりけ) に帰り, 俊成と改名。 法名釈阿。 最終官は正 3 位皇太后宮大夫。 藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》 (1132‐36 ころ), 《述懐百首》 (1140‐41) などの力詠で崇徳院の殊遇を受け, 《久安百首》の部類も下命された。 そのころから六条派主導の観念的な古典追随, 万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め, さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して, 新風の推進者となった。 平氏政権全盛期ごろには彼の育成した御子左派新進歌人も登場, 諸家歌合の判者にも招かれ,歌壇の重鎮と目されたが, ことに 63 歳で出家した翌年,藤原清輔の後任として関白九条兼実の和歌師範に迎えられ, 六条家の権威と劇的交替をとげた。 1188 年 (文治 4) には後白河院から下命されていた《千載和歌集》の編纂を完成, さらに後鳥羽院の信頼と支持を得て, 子息定家らとともに新風を深化,華麗な新古今様式の開花を導き, みずからも《後鳥羽初度百首》《千五百番歌合》など後鳥羽院歌壇の主要行事に出詠, 判者をつとめて芸術的な歌合批評に円熟ぶりを発揮した。 1203 年 (建仁 3) には後鳥羽院から九十の賀を賜う光栄に浴し, 《梢⊿園社奉納百首》詠作を最後に功成り名遂げた生涯を終えた。  この間,1178 年 (治承 2) 家集《長秋詠藻》を自斤⊿して守覚法親王に献呈, 97 年 (建久 8) には歌論書《古来風体抄(こらいふうていしよう) 》を献進 (1201 年改訂), 晩年の和歌観を吐露した。 俊成はここで天台止観によそえて和歌の変遷を内観し (最初の和歌史観), 浮言綺語 (ふげんきぎよ)の和歌が仏法悟得の機縁たりうるという新価値観 (狂言綺語観) を提示し, さらに《古今集》を歌の本体と仰ぐ伝統観 (古典の定立) を述べる。 俊成の新風は広義の幽玄体といわれ, 幻想的な詩趣と優美な声調の調和の中に, 陰翳 (いんえい) のふかい耽美的情念を流露させ, 抒情の世界に余情の新領域をひらいた。 自讃歌〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉啼くなり深草の里〉 (《千載集》巻四) は著名。 俊成の筆蹟は比較的多く伝存し,若年期の顕広切,御家切 (おいえぎれ),晩年の簡勁な了佐切, 昭和切の 4 種《古今集》,斤⊿者自筆本の日野切《千載集》, 判者自筆本《広田社歌合》,住吉切, 守覚法親王五十首切などが著名で,本文資料としても価値が高い。 近藤 潤一 『ネットで百科@Home』  End