
新渡戸知広 3ヶ月 クーイング〜喃語移行期
2010/11/9
— posted by nitobe at 10:45 pm
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2010/6/13
— posted by nitobe at 06:43 pm
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2010/6/6
ふと表紙を見直し、手にしたものが寛文二年壬寅のものであることを確かめた。====以上引用
星巡りは五黄土星。自分が生まれた年は己卯で、一白水星。今年が自分にとってどんな年であるかが、十干十二支と星という、ただそれだけで、なんとなく漠然と理解できる気がしてくる。あるいは託宣にも似た、日々の生き様の指標となる何かが降って湧くような思いがする。今自分が手にしているのが伊勢暦であることが余計にその実感を裏打ちした。
大和暦(貞享暦)を作り出した際に主人公の渋川春海が「里差」を発見するわけですが、この「里差」の説明は中国と日本の緯度の差によって起こると書いている点が一番大きな間違いです。====以上引用
授時暦の日食予報が外れた理由に中国と日本の緯度の差もあったのは確かですが「里差」といった場合、これの指す意味は専ら緯度ではなくて経度の差の問題。現在でいえば「時差」と呼ばれるものを指します。これは暦に関係する重要な概念の言葉の意味を取り違えて書いているので、大変残念。
他には、前半にあった北極出地の途中で伊勢暦を購入し、「寛文二年、壬寅の年」の暦に対して、「星回りは五黄土星・・・」なんていっている場面。残念ながら当時の暦に年家九星が載っているはずは無いですので、この場面はおかしい。
もし仮にこの「五黄土星」を渋川春海が自分で暗算で導き出してつぶやいたとしても、おそらく当時であれば、この年を「五黄土星」とはいわなかったはずです。今の年家九星の巡りから逆算するとこの年が「五黄土星」は正しいのですが、なぜだか江戸時代の年家九星は現代のものと60年分ずれていたことが判っていますから、現在から逆算して「正しい」年家九星は、当時としたら間違いということになります。
他にも「?」と思ったところは何ヵ所かあったのですが、今明確に覚えているのはこの二点。
後者はつまらない話ですが、前者はかなり困ったものだなと思います。まあ、こうした点に目を瞑っても小説自体は楽しめますが、やはり気になりますね。
— posted by nitobe at 09:59 am
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2010/5/18
(御城碁を)上覧碁と言って、過去の棋譜を暗記したものを対局者と合意の上で打ち進める。 …、自由に打とうとすれば、悪手の連発となる。==== 以上引用
前半は本当か。もちろん上覧碁とは将軍にお見せする碁の意味だが、その内容は過去の棋譜だったか。当時は上覧の場(黒書院)では打ち切れず、寺社奉行宅で打ちつぐことが普通だった。それで後(1669)に下打ちの制度ができた。棋譜を再現して見せるだけなら打ちつぐことはありえない。
後半は明らかな誤り。高段の碁なら、自由に打っても悪手の連発になることはない。
— posted by nitobe at 10:24 pm
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2010/5/7
『今有図如 大小方及日月円蝕交 大小方相除シテ七分ノ三十寸 問日月蝕ノ分』====以上引用
『今、図の如く、大小の正方形と、日月の円が、互いに蝕交している。大の正方形の面積を、小の正方形の面積で割ると七分の三十寸になる。日月の蝕交している幅の長さを問う』
『今有図如 大小方及日月円蝕交 大小方界相除シテ七分ノ三十寸 問日月蝕ノ分』====以上引用
『今、図の如く、大小の正方形と、日月の円が、互いに蝕交している。大の正方形の対角線を、小の正方形の対角線で割ると七分の三十寸になる。日月の蝕交している幅の長さを問う』
過ぎ去った日々、この世を去った者たちの存在に、ただただ感無量だった。====以上引用
(勝った)====以上引用
感無量だった。
(勝ちましたよ)
過ぎ去った日々、この世を去った者たちの存在に、ただただ感謝した。
春海のなした改暦ののち、将軍家綱は拙劣ながらも・・・・====以上引用
春海のなした改暦ののち、将軍綱吉は拙劣ながらも・・・・====以上引用
— posted by nitobe at 08:42 am
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