大仏再建


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西行と高野山
 ところで重源はこの高野山で歌人の西行と接触があったと考えられる。重源が高野山に新別所を造るよりも少し前になろうか、西行の勧進によって高野山に蓮華乗院が造営されているのである。西行は重源よりも早い時期から高野山に草庵を構えていたようである

    高野にこもりたるころ、草のいほりに花の散り積みければ
  散る花のいほりの上を吹くならば風入るまじくめぐりかこはむ

    秋の末に寂然、高野にまゐりて、暮の秋によせて思ひをのべけるに
  なれきにし都もうとくなりはててかなしさ添ふる秋の山里

 西行はこうした歌を数多く残しており、別所の聖として後世のことを考える生活を送っていたらしい。その歌のなかで訪れてきた寂然とあるのは、天台の別所である大原に隠遁していた歌人の藤原頼業のことであるが、次に掲げる歌は「宮の法印」元性が高野山に籠った際に、元性から小袖をあたえられた時の歌である。

  こよひこそあはれ厚き心地して嵐の音をよそに聞きつれ

 小袖が聖にあたえられる習慣はすでに見たところであり、西行は高野山では「大本房の聖」と称されていた。その西行が安元元年(一一七五)に東別所に造営したのが蓮華乗院であり、これの願主は五辻斎院とその母の春日局であった。
 五辻斎院とは鳥羽法皇と春日局の間に生まれた頌子内親王のことで、西行は鳥羽法皇に北面として仕え、春日局の養父の徳大寺実能には家人として仕えていた関係から、その法皇の菩提をとむらう発願になる蓮華乗院の造営に深く関与したのであった。
 この造営は重源にも大きな影響をあたえたものと思われる。重源が高野に新別所を築いたのは同じ頃のことであり、さらに蓮華乗院は治承元年(一一七七)には別所から壇上に移され、長日不断の談義の場としての性格が加わって、そこには五辻斎院が鳥羽法皇から伝領した紀伊国の南部庄が寄進された。長日不断の談義とは、これまで争いを続けてきた本寺の金剛峰寺と末院の大伝法院との二つの衆徒が一堂に会して、毎年の夏安居の五十日間、問答を行うというものである。
 大伝法院は重源の大日即阿弥陀の思想に大きな影響を与えた覚鑁が起こした真言念仏の道場であって、覚鑁は鳥羽院の帰依を受けて一大運動を高野山に展開したのであった。だがその激烈な運動は本寺金剛峰寺との対立を引き起こし、保延六年(一一四○)には山を下ることを余儀なくされ、その後も対立抗争が続いていて、安元元年四月にも合戦が起き、大伝法院の半分近くが焼かれる事件が起きていた。
 おそらくこうした対立を和解に導くために蓮華乗院が別所から壇上に移され、談義の場とされたのであろう。鳥羽院の菩提をとむらう場での談義によって両者の和解を成立させようという意図がそこにこめられていたに違いない。その蓮華乗院の経営に西行(円位)が深くかかわっていたことを物語るのが次の書状である。

 日前宮の事、入道殿より頭中将の許に、かくのごとく遣し仰せ了ぬ、返す返す神妙に侯ふ、頭
中将の御返事、書写して進しめ侯ふ、入道殿、安芸一宮より御下向の後、進しむべきの由、沙汰
人申し侯へば、本をば留め侯ひ了ぬ(中略)入道殿の御料に百万反尊勝陀羅尼、一山に誦せしめ
たまふべし、何事も又々申し侯ふべし、蓮華乗院の柱絵の沙汰、よくよく侯ふべし、住京いささ
か存ずる事侯ひて、今に御山へ遅々仕り侯なり、よくよく御所請侯べし、長日談義よくよく御心
に入れらるべく侯なり、謹言、
  三月十五日                        円位

 日前宮の造営について賦課がかかってきたのでその事を入道殿(平清盛)に訴えたこと、清盛のために尊勝陀羅尼を百万遍一山で誦すこと、蓮華乗院の柱絵をしっかりと沙汰すべきこと、長日談義についても心を入れて行うべきことなどが指示されている。蓮華乗院はまさに西行により造られ、経営されていたことがここからうかがえるであろう。なおこの書状の年次であるが、治承三年(一一七九)三月二十七日に高野山領の荘園に日前宮の造宮役を免除する内容の宣旨が出されていることから(『高野山文書』)、日付からして治承三年のものとみられる。



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六十人の僧、伊勢へ−−大般若経の転読
 四月七日、重源の夢想の告げによって大般若経の読経を六十人の僧侶をもって行うので宿所を用意するように、という行隆の奉じた院宣が神宮に対して出された。これを受けた伊勢の祭主は雑事については僧の一行が用意するので、宿と読経の場所を提供するようにと現地に命じている。
 東大寺では尊勝院僧都弁暁以下六十人の僧が選ばれ、大般若経の開題供養が四月十九日に行われたが、出発前日の四月二十二日には行隆の奉じた院宣が弁暁にあてて出され、六十人の僧による伊勢神宮での大般若経転読が命じられている。
 これによって大般若経転読は完全に院の経営によって行われるにいたった。神宮に奉納するために、重源から上紙二十帖と木綿二段が、大衆と弁暁からは神馬が一頭ずつ提供されて、いよいよ出発したのである。
 三日間にわたる沐浴潔斎を行った僧たちは、二十三日の朝に浄衣を着て、まず大仏の前に参り、続いて鎮守八幡に参詣して、用意されていた輿や馬に乗って南大門の跡から伊勢へと向かった。朝からの風雨はしだいに霧雨に変わり、午後には風がやみ、晩になって雨もやんだ。大仏供養の日と同じく雨にたたられたが、人びとはこれを「天衆影向の嘉瑞、神明感動の霊験」と感嘆したという。
 その日は伊賀国の東大寺領の中心であり、これまでに大仏の修理に大きな役割を果たしてきた黒田の庄に宿泊した。ここまで僧が乗ってきた馬は大和や山城の荘園から調達したものであって、ここから伊勢神宮までの馬は伊賀の荘園が負担することになった。
 こうして翌日には木造に泊まり、神宮に到着したのは二十五日のことである。神宮での食料三十石は東大寺別当らが負坦している。成覚寺に泊まったその翌日の二十六日、外宮の禰宜の度会光忠の申し出により、神宮らの氏寺である常明寺でもって経供養が行われた。
 これには結縁のために隣国や隣郡からは貴賤男女が「無数無辺」に集まり、導師が表白文を読み上げると、聴聞していた人びとは皆、涙したという。その後には番の論議が三番ほど交わされて初日の外宮での供養は終わった。
 この日、鎌倉から神領の訴えを受けてやってきた頼朝の使者も供養に随喜して、導師の弁暁に馬を引出物に送ってきており、また僧たちは昼には断られていた外宮の参拝を夜になって端垣の辺ですませている。
 翌日には常明寺で経の転読を行い、その足で内宮におもむいて、一の禰宜の荒木田成長の引率で参拝をすますと、二見浦にある成長建立の天覚寺にやってきた。そこでは宿所が新造されており、湯屋や従者の仮屋も造られていた。総勢七百人の膳が用意されていて、その餐にあずかった後、往生講が本堂で開かれている。ところが翌二十八日には大雨になったので、成長の申し出で供養は延期となり、代わりに二見浦の遊覧となった。
 稚児を連れて遊んだ僧たちは大いに喜んで、遊覧の後には宴会が始まった。「乱舞狂歌、糸竹管絃、種々雑芸」が燥り広げられたが、なかでも童の如意が白拍子を舞い、大仏焼失の始終を囀ると、その「音曲・体骨」に満座の人びとは哀傷を催すとともに、涙を流したという。
 こうして二十九日に天覚寺で経供養と番の論議があって、三十日には転読が行われ、翌日の五月一日には帰路につき、三日に東大寺に戻ったのである。
 この間の記録を記した東大寺の僧の大法房得業慶俊は、禰宜の成長が提供した「海陸の珍膳」と「毎日の饗応」に感激しており、この風聞は院にも伝わって成長の行為を褒める院宣が出された、とのべている。

荒木田成長の存在
 重源の企画した伊勢神宮での大般若経転読は大成功に終わった。南都から伊勢を往復した一行の姿と行動は東大寺の再建を多くの人びとに訴えるに十分であつたろう。
 なお大般若経転読の他にも持経者による法華経の転読も重源が私的に行ったらしい。おそらく重源は表面では動かずに陰で動いていたのであろう。たとえば東大寺の僧の一行が二日目に泊まった伊勢の木造であるが、ここは重源を援助した平頼盛の所領であって、頼盛が僧の一行の接待を行ったものとみられる。
 さらに注目されるのは内宮の一の禰宜の荒木田成長である。寿永三年(一一八四)五月に頼朝が武蔵の飯倉御厨をこの成長につけて内宮に寄進していたように頼朝とは深い関係にあった人物である。美麗な接待を東大寺一行に行ったことからもうかがえるごとく多くの所領を有しており、知られるだけでも伊勢の片淵御厨、遠江の蒲御厨、上野の園田・青柳・玉村御厨、下総の夏見御厨などの所領がある(『神宮雑書』)。
 そして院との結びつきも、寿永二年六月に成長が銀の剣を院に進呈すべしという夢をみたことから、宝殿から取り出しこれを院に進呈しており(『吉記』)、文治元年九月には「先年の功」を理由に朝廷に恩賞を望んでいる(『玉葉』)。
 重源を伊勢に誘ったのはこの成長だった可能性も考えられる。またこのときに西行が二見浦に庵を構えていたことも注目される。成長は『新勅撰和歌集』に一首とられた歌人でもあったが、その子長延にいたっては『新古今和歌集』に一首、『新勅撰和歌集』に五首も載る歌人であり、『御裳濯和歌集』という歌集を編んでいる。
 成長が西行や藤原定家とも親交があったことは久保田淳氏が指摘されており、西行が文治二年に勧進した『二見浦百首』にも参加している。そうであれば成長は西行と親交があったことはいうまでもなく、西行を二見浦に招いたのは成長だったのかもしれない。しかも重源の弟子の鑁也は、後の建久二年(一一九一)に室生寺の舎利盗掘事件を引き起こした法師であるが、伊勢に住んでいて長延とも親交があったという。
 こうしてみると重源と西行と成長らは文治二年には二見浦を接点にして結ばれていたのである。やがて八月に西行は、重源の依頼を受けて奥州の藤原氏を対象に東大寺勧進の旅に出ており、重源や伊勢神宮での大般若経転読事業は、西行を東に向かわせたのである。その途中で鎌倉に立ち寄ったのも偶然ではない。奥州への勧進をアッピールして、頼朝にも勧進への協力を求めるためであったとみられる。
 この伊勢参詣における重源の行動については多くの説話が残されているが、じつは重源はそのころはるか西の周防国にいたという史料もみえており、伊勢で東国に対して楔を打った重源は次に材木を求めて周防に旅していたらしい。


 底本::
  著名:  大仏再建
  著者:  五味 文彦
  発行所: 株式会社講談社
  発行日: 1995年09月10日第1刷発行
  国際標準図書番号: ISBN4-06-258056-X
 入力::
  入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)
  入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A
  編集機: IBM ThinkPad s30 2639-42J
  入力日: 2002年08月14日
 校正::
  校正者: 新田 由佳
  校正日: 2002年08月15日