4 なぜ僧侶が、伊勢神宮に参詣したのか

 −−伊勢へ向かった僧の一団と「東大寺大仏」の謎

「僧侶は拝殿に近づいてはならぬ」
 神道と仏教−−仲がよかったといつていいのか、悪かったといわねばならないのか、じつにむづかしい。
 こんな話がある。
 ある僧侶が伊勢神宮に参詣しようと考え、ふつうの人の服装に着替えて−−頭には頭巾をかぶったのだろう−−拝殿に近づいたところで神官に見咎められた。
「あんたはお寺の人じゃないですか。僧や尼さんのためには特別の『僧尼拝所』がもうけてあります、そっちへ行ってください」
 発見されるのは予定のこと、「よーし、言い負かしてやるぞ」とばかりに、準備してきた理屈をならべたてる。
「僧職にある者に参詣させない掟は知っておる。しかしじゃ、そもそも本地垂迹と申して、仏と神の区別はないのじゃ・・・。」
「ほほお。掟のあるのを知っていながら掟を破ろうというのなら、よろしい、言ってあげましょう。諸国には女人禁制のお寺がたくさんありますが、あなたと同様、女の人が掟をやぶって女人禁制の寺に参詣してもよろしいわけですな」
 お坊さんはすごすごと退散した。『翁草』という本に出てくる話だから、江戸時代にあったこと、あるいは、事実めかしてつくられたフィクションだろう。
 僧尼拝所というのは内宮の風宮橋(風日祈宮橋)の左岸をのぼったところにあった。その風宮橋はどこにあったかというと、五十鈴川の支流で、いまは島路川といっている小さな流れにかかっている。
 参詣順路にあわせて説明すると、五十鈴川の宇治橋を渡って右に折れ、「斎館」や「神楽殿」のあるところを左に行くと「正殿」の前に出る。
 ふつうの人はこの順路で正殿に参詣するわけだが、参詣を禁止されていたころの僧尼は斎館や神楽殿のところを曲がらず、まっすぐに南へ行くことになっていた。そうすると島路川があって、風宮川を渡ったところが「風日祈宮」だ。僧や尼、医師など、頭をまるめた人は、すべてここから正殿を遙拝することになっていた。
 内官の広大な神域は五十鈴川と島路川に囲まれたかっこうになっていて、僧尼拝所や風日祈宮は神域の外側、あるいははずれたところにある。僧や尼をいかに差別するかに汲々としていた姿勢がうかがえるのである。
 松尾芭蕉も頭をまるめた姿をしていたから、この僧尼拝所からでなければ参詣できなかった。芭蕉の先生で医師でもあった北村季吟も同様だ。
 例外がないわけではない。
 後深草上皇に寵愛された二条という女性(久我雅忠の娘)は人生の煩悶のすえに出家して、諸国の寺社巡礼の旅に出た。
 東国をまわって尾張の熱田神社に参り、いったん京都にもどろうと思っていたときに修行者から、「津島の渡し船に乗れば伊勢は近い」と聞いて伊勢参詣を決意した。
 津島から桑名をへて伊勢に着いた二条はまず外宮に行き、外宮の僧尼拝所とされていた二の鳥居で礼拝をすませようとした。
 しかし、神宮のはからいで正殿まで案内され、尼の身でありながら普通の人と同様なかたちで礼拝することができた。
 内宮ではどうであったのかわからないが、二見浦の見物を望んだ二条に荒木田禰宜が案内をつけてやった好意を思うと、やはり特別にあつかったものと思われる。
 嘉元四年(一三○六)ごろのことで、彼女はこの参宮のことを『とはずがたり』という日記体の作品のなかに書いている。
 上皇の寵愛を受けた女性という経歴があっての持別扱いにはちがいないが、外宮に行ったときの彼女が、「自分は尼になっているのだから、ふつうの人とおなじところからは礼拝できない」という認識をもっていたのは注目に値する。
 僧侶や尼でも参詣してよろしい、しかしふつうの人とは異なる扱いになるから、そのつもりで−−これが仏教関係者に対する神宮側の姿勢だった。

なぜ「お経」はタブーの言葉なのか
 伊勢神宮で「染紙」といったら、何を指すか?
 −−色紙みたいなものじゃないかな、ありがたい祝詞の文句を書きつける材料。
 神宮−−祝詞の文句という発想はなかなかよろしいが、正解ではない。
 伊勢神宮で「染紙」といえば、仏教のお経のことだった。
「紺紙金泥の経」という言葉があるように、お経の地紙は紺色に染めてあるのを高級なものとした。紺紙に金泥で経文の字を書いたのが紺紙金泥の経である。
 神道と仏教の区別を厳格につけなくてはいけないというタテマエがあるから、お経を「経」というと仏教を全面的に認めているようになる。そこでわざわざ「染紙」と言い換えてタテマエを守ったのだ。
 こういう言葉を「忌詞」といい、伊勢神宮では十四の忌詞がつくられていた。十四のうち七つまでが仏教に関するものである。
 仏−中子、経−染紙、塔−あららぎ、法師−髪長、優婆塞(在家の仏教修行男性)−つのはず、寺−瓦葺、斎食−片食。
 すぐにはわからないものもあるが、「寺−瓦葺」などは傑作だ。瓦で葺いた寺院の屋根は、檜皮葺の神宮の建物とまさに対照のものだから。
 仏教関係のほかでは「打つ・泣く・血・死・墓・病む」と「宍(動物の肉)」とが忌詞として口にすることを禁止されていた。
 前の六語は「現実の幸福を否定することがら」として、また「宍」は「一般人は食用としない品」として禁止されたと考えられている。(桜井勝之進「伊勢神宮」)
 僧尼拝所の設置も忌詞の選定も、仏教の浸透に対して神道が受け身の姿勢になっていることがわかる。仏教をやっつけてやろうといった、攻撃的な姿勢は感じられないのである。
「仏教そのものは排除しない。しかし、影響を受けるつもりはないぞ」
 こう言っている感じだ。

仏教伝来時まで遡る「反仏教」思想
 先に神道があって−−神道という言葉は新しくつくられたものだが−−そこへ仏教がやってきた。
 仏教を朝廷の政治にとりいれようとする蘇我氏と、それに反対する物部氏とのあいだに抗争が起こって蘇我氏が勝利をおさめた。
 その結果として、蘇我氏に擁立された天皇は仏教中心の政治を展開した−−こんなふうにいわれている。
 蘇我氏は勝利したが、といってそれが神道の滅亡につながるものではなかった。
 仏教の側では、むしろ神道と妥協していくことに展望を見出したように思われる。
 神と仏とは本質的におなじであるとする「神仏習合思想」をもちだしたのは天台宗や真言宗であり、そこから、本地である仏や菩薩が神という仮りの姿になって日本に現われていたのだという「本地垂迹説」が生まれ、また、いやそうじゃない、神が本地で仏や菩薩が仮りの姿なんだという「反・本地垂迹説」が出てきたりした。
 時と場合によって妥協と反発のバランスが微妙に変動していた、それが神道と仏教の関係だと思えばいいようだ。宗教の世界での朝廷や幕府の権力は、そのバランスのうえに乗っかっていたともいえる。
 妥協と反発のバランスとはいっても、両者は同時スタートを切ったわけではない。後発の仏教が先発の神道に入りこもうと試み、それを神道が避けようとする、というかたちのやりとりである。
 宝亀年間(七七〇〜七八一)のことだが、伊勢の神官のなかにも新しい仏教に興味を感じ、積極的に仏教を学ぼうとする者が出てきた。すると朝廷は、「神宮の役所や宮中で仏事を行なうのは男女の密通と同様の罪とする」という掟をつくった。
 神官の幹部たちが、朝廷に願ってつくってもらった掟にちがいない。それでも神官のあいだの仏教への興味を根絶するにはいたらなかった。

奇妙な逸話−−大仏建立に感激した天照大御神
 神道関係者のなかには、「仏教が攻撃をかけてくる、警戒しなければならん」という雰囲気が強くなった。
 天平十五年(七四三)十月、聖武天皇は東大寺に巨大な大仏(盧舎那仏)をつくると発表した。
 東大寺の大仏のスケールの大きさ、造営プロジェクトの膨大さをどう表現したらいいのか。新幹線と高速道路を全国いっせいにつくってしまう、それぐらいにすさまじい事業であった。
 これに協力したのが民間で圧倒的な支持を得ていた僧の行基であるが、行基の大仏造営協力について『元享釈書』という書物はつぎのように述べている。『元享釈書』は鎌倉時代の末期、京都東福寺の虎関師錬という僧によって書かれた日本仏教史の本だ。
 聖武天皇は行基に一粒の仏舎利(釈迦の骨)を与え、これを伊勢神宮に奉納せよと命じた。
 行基は神宮の社前にこもって祈りをささげていたが、七日目の夜、神殿がひとりでにひらき、どこからか大声がとどろいた。
「わたしはいま、これ以上はない大願に接して、渡りに船を得た気持ちである。また尊い宝珠を受けて、暗闇に明かりを得た思いである。行基よ、その舎利は飯高の地に埋蔵せよ」
 アマテラスの声にちがいない。
 大仏を建立する聖武天皇の大願にアマテラスは大感激し、建立の成功を願うために大切な仏舎利を奉納するという天皇の志が「渡りに船、暗闇に明かり」を得たようにうれしいというのだ。
 仏舎利は仏教徒にとっては最高の価値があるが、日本の神アマテラスには一文の価値もない。
 アマテラスが大感激するはずはないのだが、仏舎利そのものより、舎利を奉納したいという聖武天皇の気持ちがうれしい、ということなのだろう。
 だが、そうはいっても、腹立たしい気持ちをおさえられない人はいた。神道擁護の立場にたって、仏教を排撃しなければならない、仏教が入ってきてから日本はまずくなったと思いこんでいる人だ。
 筑後(福岡県)出身の医師で、診察のミスから患者を死なせてしまった後悔に耐えられず、医師をやめて学問にうちこんで晩年を過ごした人、それが藤井懶斎という人だ。
 正徳五年(一七一五)に刊行された『閑際筆記』という本のなかで、懶斎はこの事件に対する怒りの言葉を書いている。
 結論から先に言うと、この事件は仏教関係者がつくったデマにすぎないというのだ。
「もし『元享釈書』の言うのが事実ならば、神宮で仏事を行なうのを禁じなかったことになり、掟に反している。神が『渡りに船』とか『暗闇に明かりを得た思い』と言ったなどというのは、とんでもない。また神殿がひとりでにひらいて、『実相真如』などという大声がしたのが事実なら、天下の一大奇事である、国史に正しく書いてあるはずだ。それが書かれていないのは、この話のすべてが後世の仏教者の虚言だからである」
 なかなか筋は通っている。「これがウソなのは子供でもわかる」と懶斎は言う。
 子供にさえ見破られるウソをついてまで、なぜ『元享釈書』は、天皇が行基を伊勢神宮に行かせたなどと書いたのだろう?
 しかし、また、こういうふうにも考えられる−−『元享釈書』の書き方がまずいのであり、行基の代理のものが伊勢に行ったのは本当ではなかったのか、と。
 つまり、聖武天皇としては重要な人物を伊勢神宮に派遣しなければならない、切羽つまった事情があったのではないか、という推測が生まれる。
 では、その切羽つまった事情とは、なんであったか? この謎はそのままにして、もうひとつ、奇妙な話がある。

再三、伊勢へ向かう僧の一団とは・・・
 東大寺の大仏は平重衡の軍隊に火をつけられ、全焼してしまう。治承四年(1180)十二月二十八日のことだ。
 平家を滅亡させて権力をにぎった源頼朝はさっそく大仏の再建事業にかかり、俊乗坊重源という僧を責任者とした。
 重源は一輪車に乗って全国くまなく駆けまわり、大仏再建の資材と資金、そして人力を集める。
 再建事業にとりかかったそのはじめ、重源は−−
−−わかった!重源は伊勢神宮に行った、そうじゃないの?
 そうなんですよ。
 東大寺の大仏をつくる、焼けたから再建する、となると、まるで法律で決まっているかのように、造営責任者の僧が伊勢神宮に参拝するのだ。
 これを奇妙といわずしてなにを奇妙というか、と言いたいくらいに、なんとも奇妙ではないか。
 時代が古いせいもあって行基の伊勢参詣の件はぼんやりしているが、重源の揚合ははっきりしている。
 文治二年(一一八六)四月、僧侶六十人をふくむ七百人もの大勢が奈良から伊賀の黒田荘をへて伊勢に向かった。
 そもそも、重源がなぜ大仏再建事業をひきうけたのかというと、夢に弘法大師空海が立って「汝は東大寺の大仏を再建すべきである」と告げたからだ。
 そして、伊勢神宮に参詣したのは、これまた彼の夢に伊勢の大神、つまりアマテラスが現われたからだという。
 重源ほどの大物の僧ともなれば、見る夢もわれわれ凡人とはちがうはずで、「夢のお告げなんて、ウソさ」とは一概に言えるものではない。
 だけど、一度ならともかく、二度までも夢告をもちだされると、「ウソだな。なにか大変なことを隠すために夢告をもちだしたんじゃないか?」
 疑いたくなるのも無理はない。
 そこで、疑うことにする−−大仏造営と伊勢とのあいだには大変な謎がある、それはなにか?

一つの手掛かり、伊勢・丹生村に眠る「水銀」
 行基の伊勢参詣の話では、アマテラスが「その仏舎利は飯高にもっていって埋めなさい」と指示したことになっている。
 飯高とはいまの松阪市の大部分と飯南郡の全部、それに多気郡勢和村のなかの旧・丹生村、多気町の旧・鍬形村をふくむ地域をさす古い名称である。
 なかなか広い地域だから、アマテラスが言った「飯高」がどの地点を指しているのか、よくわからない。
 わからないけれども、推測の手掛かりがないわけではない。
(1) そもそもの発端は大仏建立であった。
(2) 伊勢では古くから水銀を産出していた。
 この二点をあわせて考えるとしアマテラスが言った伊勢の飯高とは丹生村を指していたのではないかという推測がなりたつのである。
 伊勢の飯高の丹生−−そここそ水銀の産地だった。聖武天皇の熱い願いに感激したアマテラスは「それなら丹生に舎利をおさめなさい」と行基に教示したわけだ。
行基に「丹生へ行きなさい」と指示したのは、「丹生の水銀を奈良に運んでよろしいよ」という許可である。
 つまり行基は丹生の水銀が欲しかった。
 行基が本当に伊勢神宮に参詣したのかどうかはさておき、大仏をつくるには水銀を手に入れなければならず、その水銀を多量に産出するのは伊勢の丹生だった。
 重源が伊勢神宮に参詣したのもおなじ理由にちがいない、水銀が欲しかったのである。
 なぜ、水銀なのか?
 東大寺の大仏の巨大なことはだれでも知っているが、巨大な大仏像の顔、あるいは両眼が金メッキされていたのは意外に知られていないようだ。大仏はピッカピッカに光り輝いていたのである。
 本来なら全身を全メッキしたいところだが、どうやら資金や資材の不足で顔だけ、あるいは両方の目だけが金メッキされていたらしい。それでも顔の長さは五メートルに近く、目の長さは一・二メートルもあったのだから、仰ぎ見る者の感動はすばらしかったはずだ。
 さて大仏は青銅の鋳物である。
 青銅製の仏像の表面に金メッキしたものを「金銅仏」と呼ぶ。東大寺の大仏は金銅仏だった。
 大仏に金メッキしたのは「水銀アマルガム法」という技術によった。
 水銀(2〜3)のなかに金(1)を溶かしてアマルガムをつくり、鋳物の表面に塗りつける。そうしておいて三五〇度に加熱すると、水銀が蒸発して金が鋳物の表面にメッキされる。
 いまなら別の技術もあるようだが、当時では水銀アマルガム法しかなかったから、水銀が不可欠だった。
 金メッキするからには金が必要なことはいうまでもないが、金があっても水銀がなければ、まさに宝の持ち腐れになってしまう。
 重源が再建した大仏の開眼供養のときには顔面の金メッキは完成していた。そのあとで全身に金メッキがほどこされたのかどうか、わからない。
 顔だけでも熟銅八万三九五〇斤、黄金一〇〇〇両、金箔一〇万枚、そして一万両の水銀が使われたことが記録されている。

国家の大事業に不可欠だった伊勢水銀
 天平の大仏建立も鎌倉時代の大仏再建も、ともに国家の事業である。天平の聖武天皇、鎌倉の源頼朝、どちらも権力の絶頂にあった。
「伊勢の丹生の水銀は、すべて大仏のメッキに使う。他の部門に使ったら厳重に処罰する!」
 一枚の書類に署名するだけで済むはずだと思われるのに、行基を伊勢に派遣する、重源に神宮を参詣させるといった仰々しい手続を踏まなくてはならなかった。
 なぜ、だったか?
 朝廷は伊勢国から水銀を税として献納させていた。それに関連して『今昔物語』にこういう話があるのが注目される。
 地蔵菩薩を信仰していた男が「郡司に催促されて」水銀を掘りに行った。水銀採取の穴を掘っていると、とつぜん穴がくずれて生き埋めになったが、地蔵菩薩のおかげで命を救われたという地蔵信仰にかかわる話だ。
 ここで注目したいのは「郡司の催促で」水銀を掘りに行った、という部分である。
 これが何を意味するかというと、伊勢の丹生の水銀生産能力は、税として徴収される量を上回るものだったという推測につながるのである。
 言い換えると、納税してもまだ残りがあったということだ。
 朝廷から「今年の水銀の貢納が遅れている、はやく納めよ」と催促があり、国司から郡司へ指示があって、この人夫は水銀を堀りに出かけた。
 そこで、もし郡司からの催促がなかったとしたら、どういうことになっていたか?
 人夫は水銀を堀らない。堀ったとしても税としては提出しないで、隠しておいて村の財産にするだろう。
 伊勢国からの水銀貢納が政府のさだめた規定量に達していようが不足であろうが、生産現揚の知ったことではない。
 朝廷としては、税を取るために伊勢で水銀を掘らせていると思つているだろうが、現場はそうではない。
 よそにはない地下資源を、秘伝の技術を駆使して採取して地元の利益の蓄積をはかっている。
 朝廷ににらまれているから税として水銀を納めるけれども、税を納めたいから水銀を掘っているわけではない。納税が目的なら、汗水たらして水銀を堀るつもりなんか、ぜんぜんないのである。
 伊勢の飯高の人々は、採取した水銀の一部を税として都に納め、残りを地元に蓄積して商品として都に売り出していた。税と商品との割合がどういう数字であったか、そこまではわからない。
 聖武天皇が大仏建立を計画するまでの日本の水銀事情は、以上のようなものであった。源頼朝が大仏再建を指示するまでの事情も同様であったといっていい。

行基、重源−−二人の傑出した僧
 大仏建立、そして大仏再建−−伊勢の水銀生産と流通が従来どおりなら完成は不可能だった。青銅の鋳物の大仏でいいというならともかく、そんな情けないもので聖武天皇や頼朝が満足するはずはない。
 少なくとも顔に、それが無理なら両眼だけでも金メッキで輝いていなければならない。青銅の鈍い色の顔や目の大仏では、開眼供養のはなばなしさなど期待できるものではないのだ。
 水銀生産と流通に激変が起こらなければ大仏は建立されない。再建も不可能である−−ならば、その激変を起こそうではないか、というのが行基と重源の伊勢参詣であった。
 大仏建立は国家の大事業である、だから神の加護をいただくために伊勢神宮に使者を派遣するというのであるなら、聖武天皇の勅使、将軍源頼朝の正式な使者のほうがふさわしい。
 なぜ行基であったのか、重源であったのか?
 その謎は、行基や重源の才能と経歴をみることで解けるはずだ。
 まず行基から考えていこう。
 主として民間で活躍した行基の身辺はさまざまの伝説であふれかえっているが、よく注意してみると、行基の業績は医療・土木・建築に重点があるのがわかってくる。
 あるときには国家権力の代行として、あるときには地方資本の要請を受けて技術を発揮するのが行基グループの実態だったはずだ。
 そしてまた重源は「支度第一俊乗房」というニックネームをつけられたほどの開発と建築のべテランであった。
 彼は三度も宋(中国)に留学したという。留学中に阿育王山の舎利殿の修理に参加したのが先進的な建築、とくに寺院建築の技術を身につける基礎となったといわれる。
 重源の宋留学そのものを疑問視する研究もあるのだが、それはそれとして彼は寺院建築の第一人者として有名になり、平家から源氏へ政権が交替した時代の要請ともあいまって、「寺をつくるなら、まず重源に相談してから」といわれるようになった。
 寺をつくるのは大工仕事だけではない。
 それに先だって立地条件の診断、資材の搬入や労働力の調達といったさまざまの問題を解決しなくてはならないが、それは政治の分野にかかわるものであった。つまり、ハードとソフトの両面における抜群の能力が「支度第一俊乗房」の名を生んだのである。
 行基と重源はこういう人物であった。
 天皇の勅使や将軍の使者といった、格式は充分だが実際の能力のない者ではつとまらないのが大仏建立、大仏再建であつたからこそ、政務と実務のべテランを伊勢に派遣しなければならなかったのだ。

神官立ち合いのもとに行なわれた重源の参詣
 それでは、行基や重源を迎えた神宮はどういう事情であったのか。
 彼らは超大規模プロジェクトの責任者である。神前におさめる初穂料は少なくないはずで、それはそれで結構なことだが、問題は水銀にある。
 水銀は伊勢の宝だ。となれば神宮にとっても貴重な資源であり、中央政府の勝手にさせたくはない。
 これまでにない量の水銀が政府の思いどおりの価格で買い占められたら、伊勢国の全体ひいては神宮自体の経済力の低下をきたすのだ。
 重源の場合をみると、山田では度会氏の氏寺の常明寺、二見の天覚寺というようにもっぱら寺院を宿舎としたようだ。
 重源一行の最大の目的は神宮の社前で大般若経を展読することだが、それとは別に一行の随員には、「神宮の正殿に参詣したい」という切望があった。僧侶には許されないことだが、だからこそこのチャンスに実現したい」と思うのは無理からぬことだ。
 そこで神宮側がどうしたかというと、外宮では夜の闇にまぎれて、こっそりと、内宮では神官が二人、三人と案内して社前での参詣を実現させてやったということだ。(『三重県の歴史』)
 伊勢の水銀を安値で買い占めないでほしい−−この願いがあっての僧侶懐柔作戦ではなかったかと思うわけだ。
 随員の僧侶を懐柔したからといって、それが水銀に対する重源の要望に水をかけられたかどうか、じつをいえば、はっきりしたことはいえない。
 しかし、重源の伊勢参詣から十二年後に、神宮を本所とする「水銀座」が成立した事実を考えると、
「伊勢の水銀は伊勢自身の手で守らなければならん」
 こういう姿勢が生まれたのは確かだ。水銀座の成立には、重源一行の接待で苦労した神宮の経験が生きているにちがいない。

水銀のメッカ、丹生村と神宮寺
 伊勢水銀のふるさと、すなわち「シルバー・バレイ丹生」は松坂と伊勢市のあいだを流れる櫛田川をさかのぼった山間の土地だ。
 山間の地というと、なにやら侘びしい印象を受けるだろうが、かつての丹生は山田や宇治に劣らぬ賑わいをみせていたのである。水銀採取に働く職人が名地から集まり、水銀売買にかかわる商人の店が軒をならべていた。
 丹生の中心は「丹生大師」の別名をもつ「神宮寺」だ。ただしくは「丹生山成就院神宮寺」という。
 本尊の十一面観音のほか、弘法大師空海が自分で刻んだと伝えられる大師像もあるという、じつに由緒ある寺院だ。
 弘法大師というと、大師の故郷の四国はもちろん、日本のいたるところに「これは弘法大師空海さまのお作です」と説明のつく寺院や仏像、はては潅漑用水路や貯水池がある。
 ひっくるめて弘法大師伝説というのだが、弘法大師最大の建築というか開発といえば、紀州の高野山に金剛峰寺をひらいたことだ。
 人里離れたきびしい環境でなければ真言密教の秘伝を学ぶことはできない−−そういう純宗教上の問題とは別の視点から高野山をみれば、全山が水銀鉱脈の上にあるという地質学の大問題になるのだそうだ。
 水銀鉱脈の上にどっかりとすわっているのが高野山金剛峰寺で、金剛峰寺を建てた弘法大師はまたシルバー・バレイの丹生に神宮寺も建立した。
 金剛峰寺も丹生神宮寺も水銀の守護神の役割を背負っていた。そういっても過言ではないだろう。
 神宮寺には水銀採取用の汞砂器と焼釜とが所蔵され、ともに中国からの伝来品らしいといわれているそうだ。
 神宮寺の近くに「西導寺」があり、土佐光信の筆になる「法然上人絵伝」が寺宝になっている。
 この作品は水銀販売で巨額の財をつくった丹生の豪商「梅屋・長井四郎左衛門」が寄進したものだ。この梅屋から松阪の三井家に嫁いでいった「かつ」という女性を母として生まれたのが、三井財閥の創始者三井高利なのである。

水銀から“伊勢白粉”へ
 丹生から櫛田川に沿って八キロほど下った左岸にあるのが射和の町だ。
 上流の丹生で採集される辰砂を精錬して水銀にしたり、その水銀を焼成して化粧品の「伊勢白粉」をつくり、全国に販路をひろめて財を集めたのが射和商人であった。
 櫛田川は、この射和から下流が航行可能の水域になる。射和で荷を積んだ船はそのまま伊勢湾に出ていけるから、水銀や白粉、そのほかの伊勢の産物の積み出し港として絶好の位置を占めていた。
 薬九層倍といって、薬品製造ほど儲かる商売はないとされている。化粧品も薬の一種だから、射和の白粉製造と販売は大いに儲かった。
 儲けがあるとなると、それまでは無関係の商人がどっと参入して利益の分け前にあずかろうとするのはいつの世もおなじこと。
 射和の白粉商人は伊勢神宮を本所にして、射和白粉座という座を結成した。室町時代のなかごろであったろう。
 権威のある本所にいくばくかの献金や労力を提供し、その見返りとして新規参入を認めない独占権を認めてもらうのが商人の座である。
 室町時代の末期に、射和白粉座の本所は神宮から公家の伯家(白川家)にうつった。
 戦国乱世のあおりを受けて神宮の権威が低下したため、射和白粉の商人たちは、「これでは特権を守れない。神宮よりも強い権威に頼って特権を維持しなければだめだ」という意見をもつようになったのだ。
 本所を新しくしてヤレヤレと思うまもなく、射和白粉の業界は恐怖のどん底に突き落とされる。
 それが何であったかというと、中国やヨーロッパから新種の白粉が、多量かつ安値で輸入されてくるようになったからだ。
 中国やヨーロッパの白粉を輸入販売した商人の代表は堺の小西という人だ。豊臣秀吉の重臣で、関ヶ原の合戦で西軍を指揮して敗れ、京の鴨川の河原で処刑された小西行長の父にあたる。
 伊勢湾の射和と瀬戸内海の堺、−−とても勝負にならない。
 射和の白粉商人が堺に対抗して瀬戸内海貿易に進出しようとしても、熊野灘の荒波と戦い、なおかつ志摩の大王崎や紀伊の潮岬の難所をまわらなくてはならない。条件がちがいすぎる。
 もっとも、射和白粉にまったく希望がないわけではなかった。
「オイ、きいたか。舶来の白粉にはナマリが使ってあるそうだ」
「ナマリが! そんな白粉を使ったら、大変なことになりはせんか?」
 そのとおりである、舶来の白粉の原料はナマリである。だから肌にノリがよく、また安値であったわけだが、ナマリ製品を肌に塗りつけたら鉛毒にやられる恐れがある。
 「舶来白粉は危険だ、ナマリが使ってあるぞ!」
 品質の危険性を宣伝してライバルを蹴落とす方法はあったのだが、いつの時代にも「安値、効率」は大衆とか消費者には万能の効果がある。「ナマリ白粉は危険だ、危険だからこそ安いのだ」と反論してみても、勝ちめはないのであった。
 なお悪いことに、丹生の水銀生産がじり貧の一途をたどった。となると原料高に拍車がかかり、舶来白粉との勝負はますます射和に不利になっていった。

梅毒の特効薬も“伊勢水銀″だった
 射和の白粉は舶来の白粉との勝負に敗れた−−この知識だけをもって射和を訪ねるのは間違いのもとになる。
 射和の町並みには往時の繁栄をしのばせる面影が濃厚であって、その繁栄は豊臣秀吉の時代よりは後までつづいたのではないかという錯覚さえ起こさせる。
 −−舶来の白粉との競争に敗れたのは江戸時代になって、しばらくしてからのことだったんじゃないのかな?
 そういう疑問の出るのももっともだけど、歴史の事実は動かせない。射和の白粉が舶来品との競争に敗れたのは戦国時代の末期だった。八十八軒もあった釜元がつぎつぎと閉鎖に追いこまれていったのだ。
 −−でも、それにしては、この面影は豪勢すぎるようだが?
 謎がある。
 どんな謎かというと、バイドクである。
 −−バイドク!
 そうです、性病のなかでもっとも残酷な梅毒が江戸時代初期の射和の繁栄をつくったのです。
 南蛮貿易は外国産の白粉をもってきて射和の白粉を駆逐したが、それと同時におそろしい梅毒ももってきて、たちまち流行させた。
 不幸中の幸いとはまさにこのこと、水銀を原料とする射和の軽粉が梅毒に対する特効薬だということがわかったのである。
 白粉と軽紛とは、どちらも水銀を原料としてつくられる。詳しいことはさておき、製法が少し異なるだけで、おなじものだといってもいい。「化粧品としては白粉といい、梅毒駆除剤としては軽紛という」と説明しても間違いではない。
「軽紛は梅毒に効くぞ!」
「待てーっ、釜をこわすな!」
 釜本がつぎつぎと閉鎖され、水銀製造の設備があとかたもなく破壊される寸前、軽紛製造装置へと転換した。
 丹生水銀の生産量は低下をつづけ、軽紛の原料価格も高く、したがって舶来の白粉よりはるかに高価の軽紛となったが、そんなことはかまわない。
 たかが化粧品の白粉より、おそろしい梅毒を治す軽紛がいくら高価であっても当然なのだ。
 射和の町を歩いて感じる「往時の繁栄の面影」とは、梅毒の流行とそれを排除しつつ性の行為に邁進した日本人の、いわば絶対必要経費によってもたらされたものだ。

 底本::
  著名:  伊勢神宮の謎
  著者:  高野 澄
  発行所: 祥伝社
  発行日: 平成13年04月20日 第8刷発行
  初版:  平成04年10月25日
  国際標準図書番号: ISBN4-396-31047-1
 入力::
  入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)
  入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A
  編集機: IBM ThinkPad s30 2639-42J
  入力日: 2002年08月08日
 校正::
  校正者: 新田 由佳
  校正日: 2002年08月15日