西行公園写真情報

台風並みの集中豪雨の中、韮崎から移動してきた。
雨と霧で風光明媚なはずの富士川沿いの景色が全く見えない。
しかし徐々に雨脚は弱まり、いつしか上空は青空。
おっと、気づかぬうちに西行を通過していた。
ファミリーマートで「西行公園はどこですか?」と尋ねたら、
アルバイトのおねーちゃんたちに怪訝な顔をされた。
地元の道案内くらい出来なくてどうする!じもぴーギャルズ。
そこから500m戻ったら「西行」のバス停があった。
更にその先に「西行公園」の入口があるはずなのだが、
たまたま道路工事区間内になっている。
ガードマンが一人配置されていて上に上がりたいと言ったら誘導してくれた。
「西行公園」に到着。いい公園である。
歌碑のロケーションもなかなかいい。
天候は回復したが、富士山の雲が取れない
約二時間「富士待ち」をしたが、「盆中の富士」は拝めなかった。
引き分けというところか。復讐を誓う。
帰路は52号線を南下、国道1号を地道に走る。箱根は濃霧、厚木は大渋滞。

撮影日:  2003/10/13
撮影場所: 山梨県南巨摩郡南部町西行
撮影者:  新渡戸 広明
撮影機:  ASAHI PENTAX SPII・TAKUMAR 1:3.5/24・FUJICHROME PROVIA400F
予備機:  写るんです ASA800

 「西行公園 map」


「西行バス停」001 「西行バス停」




「西行公園入口付近」002 「西行公園入口付近」


良く見ると左右の鉄柱に「西行」と書いてある。
道の駅「とみざわ」から2kmの地点。

「西行公園」003 「西行公園」




「説明版」004 「説明版」


ふるさとの史跡 西行公園

「風になびく富士の煙の空に消えて
           ゆくへも知らぬわが思ひかな」
 この歌は西行法師が文治2年(1186年、平家が壇ノ浦の戦いに
敗れた翌年)68才の時、京から東国行脚の折駿河よりこの地に入
り、噴煙がたなびいている富士山を見て詠んだもので西行晩年の
傑作であります。
 西行法師は平安末期より鎌倉初期の歌人で、動乱の世に自然と
旅を愛し当時第一の歌人とたたえられ、新古今集に最高の94首が
残されています。
 「願はくは花のしたにて春しなむ
          そのきさらぎの望月のころ」
(わたしが願うことは、桜花の下で春死のうということ
 それも釈尊が涅槃に入られた2月15日夜の頃)
と、かねて望んでいたように建久元年(1190年)2月16日河内の
国の山里で72才の生涯をとじています。

 西行という名前の由来は西行法師が東国行脚の途中、駿河の国
より富士川に沿って甲斐の国に入り、この峠の下の村に庵を結び
暫く住みました。故にこの村を西行村、峠を西行峠、峠までの坂
道を西行坂と言います。
 この西行法師ゆかりの西行峠は、かつての甲駿往還であり身延
道であります。文永11年(1274年)5月に日蓮上人が身延山へ入
山する時この峠を越えており、万治2年(1659年)8月に深草元
政上人が西行峠の素晴らしさを漢詩に残しています。戦国時代に
甲州武田軍の駿河攻めや武田勝頼追討の徳川軍もこの峠を越えて
います。
 西行峠より見る富士山は「盆中の富士」といわれ、御坂峠、花
水坂と並んで「富士見三景」と称せられています。大正初期に大
町桂月(紀行文の第一人者)が富士見三景巡りにここを訪れ、西
行峠のすばらしさを桂月全集に残しています。
                         富沢町


「西行庵」005 現代建築「西行庵」




「西行公園全景」006 「西行公園全景」


「西行庵」の右上に見える部分が入口。

「西行歌碑」007 「西行歌碑」


東の方へ修行し侍りけるに 富士の山をよめる 西行法師
風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな


「富士川」008 「富士川」




「富士待ち親父」009 「富士待ち親父」




「残念」残念


空全面の雲からここまで「富士待ち」したが、「盆中の富士」は遂に断念した。残念。

素材集
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