小夜の中山公園 写真情報

焼津に所用あり。
焼津のホテルから四時半起きで小夜の中山を目指す。
夜明け前に到着。真っ暗。
三十分我慢して撮影。露出不足。真っ青。ぶれぶれ。
公園奥の「風になびく」碑、失念。

撮影日:  2006/02/20
撮影場所: 静岡県掛川市佐夜鹿 小夜の中山公園
撮影者:  新渡戸 広明
撮影機:  FUJIFILM Q1 DIGITAL 4.0 Ir
001 「『年たけて』碑と説明板」




002 「『年たけて』碑 説明板」


   小夜の中山峠
 箱根と並び称される東海道の難所。古
くから多くの旅人達が、この峠に苦しめ
られながらも、数々のうたや伝説を伝え
てきた景勝の地です。

   西行歌碑
--------生涯二度目の難所越えに詠む--------
 西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入
集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この
一首である。

  年たけてまた越ゆべしとおもひきや
         命なりけりさやの中山


 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然との
かかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました
晩年六十九歳の作である。この歌は、文治三年(一一八六)の秋、重源上人の
依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、
生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
 小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この
一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠
まれるようになる。
 当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相
当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代か
らの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれ
てから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。
 西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすす
められ、寄せられた募金をもとに昭和五十五年十月建立された。碑文の
揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設
計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏による
ものである。


003 「『年たけて』碑 裏面」


 東の方へあひ知り
 たりける人のもとへ
 まかりけるに
 さやの中山見し
 ことの昔になり
 たりけるを思ひ
 出でられて
      西行法師


004 「『年たけて』碑 正面」


年たけて
また越ゆべしと
おもひきや
いのちなりけり
さやの中山


005「高野山真言宗」
「佐夜之中山久延寺」



006「説明板」


   きゅうえんじ
   久延寺
夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかつての
掛川城主山内一豊が境内に茶亭を設け
関ヶ原に向う徳川家康をもてなしたことで知ら
れています。
境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植
えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわって
います。


006「説明板」


   伝説 小夜の中山夜泣石
 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働
きに行っての帰り中山の丸石の松の根本でお腹が痛くなり、
苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱し
ていたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い
逃げ去った。
 其の時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、
お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言
った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和
尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子
となった。
 そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞
いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦
を切り捨てた時に石に当たったのだ」と言ったので、母の仇
とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号を
きざみ、立ち去ったと言う。
          文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

(C)Copyright 2006 Hiroaki Nitobe All rights reserved
許可なく転載を禁じます