茅ヶ崎・辻堂写真情報


撮影日:  2002/11/09
撮影場所: 神奈川県茅ヶ崎市・藤沢市辻堂
撮影者:  新田 由佳
撮影機:  MINORUTA VECTIS2000/22.5-45mmF5.4-6.6

「茅ヶ崎 MAP」MAP1「茅ヶ崎 MAP」

京王相模原線 多摩センター〜橋本 170円
JR相模線  橋本〜茅ヶ崎 540円


「茅ヶ崎市 文化資料館」001 「茅ヶ崎市 文化資料館」


西行歌碑は「文化資料館」の門柱になっています。
犬のおしっこの跡が何とも悲しい。


「西行歌碑右側(上部)表面」002 「西行歌碑右側(上部)表面」


芝まとふ葛・・・
 砥上ヶ原・・・


「西行歌碑右側(上部)裏面」003 「西行歌碑右側(上部)裏面」


建設 茅ヶ崎市
企画 郷土史研究会

砥上ヶ原の名・・・
古名で、西行・・・
??????・・・


「西行歌碑左側(下部)表面」004 「西行歌碑左側(下部)表面」


・・・みに妻こめて
・・・鹿鳴くな里
    西行法師


「西行歌碑左側(下部)裏面」005 「西行歌碑左側(下部)裏面」


昭和三十四年・・・
 八幡宮鳥居の・・・


「西行歌碑 説明板」006 「西行歌碑 説明板」


文化資料館と西行の歌碑

 文化資料館は、市内の文化財、民俗、歴史、考古、自然の調査、収集、
保存等を目的にしています。展示室には、市民の皆様から寄贈、寄託さ
れた民具、遺跡等の発掘出土品、現在数を減らし、姿を消して行く樹林
の生物などを展示しています。

ぜひ、お立ち寄りください

 入り口の門柱に使われているのは、もと鶴嶺八幡宮の石の鳥居の一部
で、西行法師が旅の途中、茅ヶ崎を通過した時に詠んだという「芝まと
ふ葛(くず)のしげみに妻こめて砥上ヶ原(とがみがはら)に牡鹿(お
じか)鳴くなり」と刻まれています。

 主碑  芝まとふ葛 〔のしげ〕 みに妻こめて/

砥上ヶ原 〔に牡〕 鹿鳴くなり/西行法師

 西行は、東国への旅では、鎌倉で頼朝に会ったりしており、この歌か
ら、当時の茅ヶ崎の様子がうかがえます。
 この歌碑は、以前、ここから近い国道一三四号線(湘南道路)のロー
タリーにあったのですが、道路改修で取り除かれ、その時に折損したら
しく、完全な歌碑の姿を失っているのは残念です。
 西行(元永一〜建久一≪一一一八〜九十≫)は、平安時代の歌人。朝
廷に仕える武士でしたが二十三歳の時、妻子も官位も捨てて出家し真言
宗の僧となり、全国を旅しながら自然と仏道に心を寄せ、人間くさい歌
風で多くの歌を残しました。自然詩人を言われています。
 『新古今集』の代表的歌人で歌集「山家集」があります。


「国木田独歩 追憶碑1」007 「国木田独歩 追憶碑1」




「国木田独歩 追憶碑2」008 「国木田独歩 追憶碑2」




「国木田独歩 追憶碑 説明板」009 「国木田独歩 追憶碑 説明板」


国木田独歩と茅ヶ崎

 文豪国木田独歩は、明治四十一年二月三日
南湖院に入院し六月二十三日、第三病室にて
臨終を迎えた。享年三十八才であった。
文友真山青果が筆記した、独歩病床録には次
の一文がある。「茅ヶ崎の砂は鎌倉に比して色
黒く粒大なり、風物荒寥たる所以なり、茅ヶ
崎の空気は荒し、肺を病む人には適さざる如
し、又湿と乾との差も甚し、茅ヶ崎は松と麦
と桑と甘藷の外、眼を慰むるものなし。」
 独歩の遺作”渚”は茨城県、那珂湊に滞在
中の作といわれ、同地と風景の似かよった相
模灘を目前にしたこの海岸に「永劫の海に落
ちゆく世々代々の人生の流れの一支流が、僕
の前に横たわっている。」と渚の一節と独歩の
似顔が永劫に相模の海を見守っている。
 昭和三十五年六月、独歩没後、五十五年忌
を記念してここに独歩追憶碑が建立された。

   昭和五十六年六月二十二日 茅ヶ崎ロータリークラブ
   平成二年六月二十三日 再製 茅ヶ崎郷土会


「鶴嶺八幡宮1」010 「鶴嶺八幡宮1」




「鶴嶺八幡宮2」011 「鶴嶺八幡宮2」




「鶴嶺八幡宮 御由緒」012 「鶴嶺八幡宮 御由緒」


鶴嶺八幡宮

御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神

    菅原道眞(鶴嶺天満宮合祀)

鎮座地 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷四六二番地

    (電話〇四六七−八二−六七二五)

例大祭 九月十五日

  御由緒

 相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い
康平年間(1058〜1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい本郡
懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと伝
う。更に治承年間(1177〜1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、そ
の旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。
 源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進
し、また建久年間(1190〜1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、懐島
権守平景能をして社殿の修復を命じた。弘安四年(1281)には蒙古軍
退散を祈り、その後、永禄・元亀年間(1558〜1573)に兵火に羅り堂
宇・古記録等を焼失した。
 古くは、本社の別当に十二坊があったが各々村々に離散し廃坊と
なった。正保年間(1644〜1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相
計り社殿を再建した。また参道を整備し松を植えた。慶安二年(1649)
八月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。明治維新の
神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。明治六年村社
に、昭和九年九月六日に郷社に列格。

 相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ。
 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。
 「花の梢一木一木に神さびたり」
       東国紀行(天文十三年・1544年)室町時代より


「辻堂MAP」MAP2 「辻堂MAP」

JR東海道本線 茅ヶ崎〜辻堂180円


「熊の森権現入り口」013 「熊の森権現入り口」


ラーメン「タマヨシ」と「アルソア ハナノ」の間の路地を入ります。
非常に分かりにくく、かなり探し回ってしまいました。
藤沢の女子高校生はまだルーズソックスだ。(妙な事に感心していてはいけない)


「熊の森権現1」014 「熊の森権現1」


「熊の森権現」はマンションの敷地の一角にあります。

「熊の森権現2」015 「熊の森権現2」




「西行歌碑 表面」016 「西行歌碑 表面」


芝松のくずのしげみに妻こめて
とか美か原に牡鹿鳴くなり
          西行


「西行歌碑 裏面」017 「西行歌碑 裏面」


  平成八年十一月吉日
  桜井伸一郎建之

少而学 則壮而有為
壮而学 則老而不衰
老而学 則死而不朽
     佐藤一斎


JR東海道本線 辻堂〜藤沢 180円
小田急江ノ島線 藤沢〜多摩センター 500円

素材集
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