Title  源平盛衰記  Description  (上巻p242)  *(略)  Subtitle  和歌徳事  Description 凡和歌は、国を治人を化する源、心を和思を遣基也。故に古の明王、月の夜雪の朝、良辰美景ごとに、侍臣を召集めて夢の歌を奉らしめて、人の賢愚を知召といへり。奈良御門の往躅より始て、延喜天暦の以来、夜の雨塊を穿たず、秋の風枝を鳴さぬ御代には、必ず勅撰ある事今に絶ず、只住吉玉津島の此道の崇神たるのみに非ず、伊勢、石清水、賀茂、春日より始奉て、託宣の詞は夢想の告、何も歌に非ざるは少し。霊神の御歌に名を連、明王の御製に肩を竝事、此道の外は又何事かは有るべき。能因が歌には三島の明神納受し、小式武が歌には冥途の使を退くと見えたり。唯治世の基、神道の妙に叶のみに非、又佛法の正理にも通ずる故にや、清水の観音は、しめぢが原のさしも草と詠給、善光寺の如来は、厩戸の王子に贈答し給へり。凡三十一字は、無間頂を除いて三十二相にかたどり、五句六義の趣は、五輪六丈の瑜伽を顕す。此故にや行基菩薩、婆羅門僧正、傳教大師、慈覚より以来、或は釈門の棟梁、法家の龍象、或は名を玄地に遁れ、跡を白 (上巻p243) 雲に暗くする人、此道に携ざるは稀なり。玄賓僧都は、山田を守りて秋果ぬればと恨み、空也上人は、市の中にも墨染の袖と詠じ給ふ。されば西行法師が夢にも、時澆季に及、世末代に臨て、萬事零落すれども、歌道計は猶古におとらずといへり。判官入道も、難波津の言の葉、卒都婆の面に書集、海へぞ入たりける。薩摩方より、新羅、高麗、震旦、天竺、島々国々にも寄つらん、異国なればよもしらじ。縱一丈二丈の木也共、漫々たる海上茫々たる繁浪に、争か当国に来べき。況や一尺二尺にはよも過じ。祈る祷も叶つゝ、龍神惠を顕して、当社の砌に附寄けり。  *(略)  Description (上巻p252)  *(略)  Subtitle  讃岐院事  Description 新院讃州配流の後は讃岐院と申けるを、廿九日に御追號有て崇徳院とぞ申ける。去る保元元年七月に当国に遷され御座て、始は直島に渡らせ給けるが、後には在廰一の廰官野 (上巻p253) 大夫高遠が堂に入せ給けるを、鼓岡に御所を立て奉r居、御歎の積にや、御悩の事有ければ、関白殿へ能様に申させ給へと仰有けれ共、世を恐させ給ひつゝ御披露も無りければ、思召切らせ給て、三年の間に五部大乗経をあそばし集て、貝鐘の音もせぬ遠国に捨置進せん事心憂く覚え侍るに、御経ばかり、都近き八幡鳥羽邊迄入まゐらせばやと、御室へ申させ給けり。其御書云、昔は槐門崇〓の窓にして玉體遊宴の心をやすめ、今は離宮外土の西海の波にくだかれて江南浮沈の哀声を加ふ、嵐松を拂て獨筵に月を見、争か再、舊郷に還て、自玉聖の気を成ん、月西山に傾けば都城仙宮の暁の詠を思出、日晨岳に出れば龍楼竹園の甚しき興を忘ず、早く民煙蓬屋の悲涙を止て、必三佛菩提の妙位に昇らんとあそばして、奥に一首の御製あり。   濱千鳥跡は都へ通へ共身は松山に音をのみぞ啼 御室より此御書を以関白殿へ被r仰けり。関白殿又内へ被r申たりければ、少納言入道信西を召て仰含らる。信西さる事争か候べきと大に諌申ければ、御免もなかりけり。讃岐院此由聞召れては、御心憂事也。天竺、震旦、新羅、高麗にも、兄弟国を論じ、叔父甥位を諍て致2合戦1事、尋常の習なれども、依2果報1、兄も負甥も勝、されども手を合膝を折 (上巻p254) て降人に成ぬれば、辛罪に行るゝ事やはある、我今悪行の心を以係苦みを見れば、今生の事を思捨て、後生菩提の為にとて書奉る五部の大乗経の置所をだにも免されねば、今生の怨のみに非ず、後生までの敵にこそと仰られて、御舌のさきを食切給ひ、其血を以て音経の軸の本ごとに、御誓状をぞあそばしける。書寫し奉る處の五郎の大乗経を以て、三悪道に抛籠畢。此大功徳の力に依、日本国の大魔と成て、天下を乱り国家を悩さん、大乗甚深の囘向、何の願か不2成就1哉、諸佛證知證誠し給へ、顕仁敬白とあそばし、誓はせ給て其後は、御爪も切せ給はず、御ぐしも剃せ給はず、生ながら天狗の貌に顕れ時、御座けるこそ恐しけれ。小河侍従入道蓮如とて世捨上人あり。昔陪従にて公事勤ける時、御神楽などの次に、自幽に見参に入進せける計なれば、さしも歎き思進すべきにしも無れども、大方情深き人にて、只一人自負かけて都を迷出、はるかに讃岐国へ下りにけり。御所の渡に餘所ながら立囘て見けるに、目も当られぬ御有様也。いかにもして内に入り、角と申入ばやと志深く伺けれ共、奉r守ける武士はげしくとがめければ、空く日も暮にけり。折節月隈なかりければ、蓮如心を澄して笛を吹て通夜御所を廻、暁方に黒ばみたる水干袴きたる人内より出たり。便を悦て相共に内に入、事の體を見に、草深しては朝 (上巻p255) の露袖を濕し、松高しては夜の風膚を融す。人跡絶たる庭上に、奇げなる柴の御所、まことにいぶせき御住居也。傳聞しよりも猶心憂く悲しかりければ、中々無r由下にけりとぞ思ける。哀哉姑射山の上にしては曇らぬ月を詠め、蓬莱洞の内にしては四海の波を澄し御座しに、庭の千草は枝かはし、往還人も絶果て、賤か宿戸の庵より猶うたてき様なれば、蓮如涙に咽けり。さても有つる人して角と申入たりければ、院はさしも戀しき都の人なる上、昔御覧覚ぜし者なれば、御前へも被r召度は思召けれ共、問につらさも思し出ぬべし、又係浅増き御貌を見えん事も憚あれば、中々無r由とて、只御涙をのみぞ流させ給ける。御気色角と申ければ、蓮如誠にもとて一首を詠じ、見参に入よとて、   朝倉や木の丸殿に入ながら君にしられで帰る悲しさ 御返事あり、   朝倉やたゞ徒に帰すにも釣する海士の音をのみぞ啼 蓮如いと悲く覚て、是を笈に入つゝ泣々都へ帰上る、哀にやさしく聞えし。其後長寛二年の秋八月廿四日、御年四十六にて、支度と云所にて終に隠れさせ給にけり。讃岐御下向之後九年にぞ成給ける。白峯と云山寺に送奉り燒上奉りけるが、折節北風けはしく吹 (上巻p256) けれ共、餘に都を戀悲み御座けるにや、煙は都へ靡きけるとぞ。御骨をば必高野へ送れとの御遺言有けるとかや。鳥羽院の北面に佐藤兵衛尉義清と云し者道心を發し、出家入道して西行法師と云けるが、大法房圓意と改名して、去仁安二年の冬の比諸国修行しけるが、中比のすき者にて、東は壺の石、歩夷が島、西は金の御崎、松浦の沖、名處舊跡の歌枕を歩み、見ぬ所はなかりけり。不破の関屋に留ては、月には雲のふはと云、武蔵野を過とては、柏木の葉守の神を恨けり。實方中将の墓にては、一村薄を悲み、白川の関にかゝりては、関屋の柱に筆を止む。四国の方の修行を思立けるときは、江口の妙に宿をかり、假の宿と讀しかば、心とむなと返しつゝ、一夜の宿をぞ借にける。讃岐国へ入て松山の津と云所に行きぬ。こゝは新院流されてわたらせ給ひける所ぞかしと思出し、昔戀しく尋まゐらせけれ共、其御あともなかりければ、龍顔奉公の古より、鵝王帰依の今までも、御事忝く哀に覚えければ、   松山の浪に流れてこし舟のやがてむなしく成にける哉 と打詠て、支度と云山寺に遷らせ給ても年久成にければ、御跡なきも理に覚て、御墓はいづくぞと問ければ、白峯と云山寺と聞て尋参りたりけるに、あやしの下臈の墓よりも (上巻p257) 猶草繁し。いかなる前世の御宿業にかといと悲し。昔は清涼紫宸の玉臺に四海の主とかしづかれ御座しに、今は民村白屋の外土に八重の葎に埋れ給へる事、御心うき事なれ共、翠帳紅閨の中に三千の君と仰がれ、龍楼鳳闕の上に二八の臣とあがめられて、辨才世にかまびすしく、威勢朝に振し人々も、名ばかり留る世の習、咸陽宮も徒に片々たる煙と昇、姑蘇臺も空〓々たる露繁し。宮も藁屋もはてしなし、兎ても角ても世の中は、只かげろふの假の宿、すみはつまじき所也とて、西行古詞を思出て、   松樹千年終是朽、槿花一日自成r榮 と詠じつゝ暫くこゝに候ひけれども、法華三昧つとむる往持の僧もなく、燒香散華を奉る参詣の者も無りけり。最物さびしかりければ、   よしや君むかしの玉の床とても係らんのちは何にかはせん と讀けるは、彼延喜の聖主の、   いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀も異らざりけり と申御歌に思合て哀なり。さても七箇日逗留して、花を手向香を燒讀経念佛して、聖霊決定往生極楽と囘向し奉て立けるが、御廟の傍に松の有ける本を削り、無らん時の形 (上巻p258) 見にもとて二首の歌をぞ書附ける。   久に経て我後の世を問へよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ   爰を又我住うくてうかれなば松は獨にならんとやする 書注てぞ出にける。是にや怨霊も慰給けん〓なし。さても西行發心のおこりを尋れば、源は戀故とぞ承る。申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、樂榮は秋の夜の月西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。あこぎは歌の心なり。   伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれ と云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外は〓を引ずとかや。此仰を承て西行が讀ける、   思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは 此歌の心を思には、一よの御契は有けるにや、重て聞食事の有ければこそ阿漕とは仰けめ、情かりける事共也。彼貫之が御前の簀子の邊に候て、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ一首の御製を給て、夢にやみるとまどろむぞ君と申たりけん事までも、想やるこ (上巻259) そゆかしけれ。  *(略) (上巻p354)  Subtitle  小松殿夢同熊野詣事  Description 治承三年三月の比、小松内府夢見給けるは、伊豆国三島大明神へ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金の鎖を以て大なる木を掘立て、三つの鼻綱につなぎ附たり。大臣思給けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌し給て、死人に近附たる者をだにも、日数を隔て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御寶殿の御前に参て見給へば、人多居竝たり。其中に宿老と覚しき人に問給やうは、門前の係りたるはいかなる者の首にて侍ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣へば、僧答て云、あれは当時の将軍、平家太政入道と云者の頸也、当国の流人源兵衛佐頼盛、此社に参て千夜通夜して祈申旨ありき、其御納受に依て、備前国吉備津宮に仰て入道を討してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。恐し浅猿と思召、〓騒心迷して、身體に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける處に、妹尾太郎兼康、折節六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿に参て案内を申入、大臣奇と覚しけり。夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚語らんとて来たるにやと、御前に被r召 (上巻p355) 何事ぞと尋給へば、兼康畏て夢物語申、大臣の見給へる夢に少しも不r違、さればこそと涙ぐみ給て、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不r及誡宣けり。懸ければ一門の後榮憑なし、今生の諸事思ひ捨て、偏に後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達引具し奉り熊野参詣あり。精進日数を重つゝ、本宮に著給ひて、證誠殿の御前に再拝し啓白せられけるは、帰命頂禮大慈大悲證誠権現、白衣弟子平重盛驚奉、申入心中の旨趣を聞召入しめ給へ、父相国禅門の體、悪逆無道にして動すれば君を悩し奉る、重盛其長子として頻に諌を致と云共、身不肖にして不2敢服膺1、其振舞を見に一期の栄花猶危、枝葉連続して親を顕し名を揚ん事難し、此時に当て重盛苟も思へり、憖に諂て世に浮沈せん事、敢良臣孝子の法に非ず、不r如名を遁れ身を退て、今生の名望を抛て来世の菩提を求んにはと、但凡夫の薄地、是非に迷が故に、猶未志を不r恣、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくば、入道の悪心を和て天下安全を得せしめ給へ、若榮耀一期を限、後毘恥に及べくば、重盛が運命を縮て来世の苦輪を助給へ、両箇の愚願偏に冥助を仰ぐと、肝胆を砕て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を發しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神に参つゝ、通夜 (上巻p356) して後世の事を申けるにも、流石名残惜くて、   かしこまる四手に涙ぞ係りける又いつかもと思ふ身なれば と讀て涙ぐみたりけん事、急度思出給ひつゝ、袖をぞ濕し給ける。彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻り会世も有ぬべし。是は最後の暇を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覚しけめ。筑後守貞能御供に候ひけるが、奉r見けるこそ奇けれ。大臣の御後より、燈爐の火の如くに赤光たる物の俄に立耀ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。悪き事やらん吉事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不r申、御悦の道になり給。音無の王子に詣給たりけるに、清淨寂寞の御身の上に、盤石空より崩係るとぞ大臣うつゝに見給ける。岩田川に著給て、夏の事也ければ河の端に涼み給ふ。権亮少将己下、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。薄あほの帷を下に著給へるが、淨衣に透通て諒闇の色の如くに見えければ、貞能是を見咎て、公達の召れたる御帷淨衣に移て、などや忌敷覚候、可r被2召替1と申ける。次を以て證誠殿の御前にて念珠の時、御後に照光し事有の儘に申ければ、大臣打涙ぐみ給て、重盛権現に申入旨有き、御納受あるにこそ其淨衣不r可2脱改1とて、是より又悦の奉幣あり。人々奇とは思ひ (上巻p357) けれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡の出給たれども、つや/\療治も祈誓もなかりけり。  *(略)  Note げんぺいじょうすいき —じやうすいき 【源平盛衰記】 軍記物。四八巻。作者未詳。鎌倉後期以降に成立。「平家物語」の異本の一種。一般に流布した「平家物語」に比べて歴史を精密に再現しようとする傾向が強く、そのため文体も、やや流麗さを欠く。ただし謡曲・浄瑠璃など後世の文芸への影響は大きい。げんぺいせいすいき。盛衰記。 大辞林 第二版  End  底本::   有朋堂文庫『源平盛衰記』(明治45〜大正元年初版刊行)上下2冊 JALLC版機械可読テキスト『源平盛衰記』のデータから「西行」関係分のみ抜粋しました。 JALLC情報処理語学文学研究会 JALLC Text Archives $Id: genpei.txt,v 1.7 2020/01/06 03:45:05 saigyo Exp $