Title  『富沢町の生活文化』  Note  富沢町誌編纂資料第5集  昭和51年9月10日  Subtitle  『西行峠』  Description  甲斐国志に次のような一節がある。 ○西行坂(仝村<万沢村のこと>)村の北駿州路に小坂あり民戸ある処を西行村と名く、富士川此に漲り東へ転ずるを西行滝と云う。岸の上高き処に一株の松あり、老大にして地を覆ひ、盤根多く露はる。実に数百歳の物なり、里人の説に西行此上に盧して憩息せり、駿河なる富士の烟の等【空:誤】に消てと詠せしは此処なり因て地に名くと云々。  あつまのかたへ修行し侍りけるにふしのやまをよめる                   (新古今集) 西行法師 風になびくふしの煙の空に消て行衛もしらぬ我思ひかな  西行撰集抄中山道東下りの事は見たれども、全本に非ず西行物語、同歌集、山家集等にも凡て西行本州へ来りしことは見えず、口碑に伝ふる歌多けれども一も徴する所なし、此所の歌とはなけれども玉葉集に  いほりのまへに松のたてりけるを見てよみ侍る                西行法師 谷の戸にひとりそ松もたてりける我のみ友はなきかと思へば ひさにへて我後の世をとへよ松あと忍ふへき人もなき身は  西行去て後里人石像を造り此樹下に安に【ぜ:誤】り世に伝る。富士見西行の図は蓋し是より模するなりと云う。此の石像今は所在を失せり。東の山低く平にして其上に富士山現はれ、積雪常に皎く恰も盆中に盛るが如し、北に河灘を遥眺し風景殊に勝れたり、富士の画に前に山をおき又月を添たるは皆本州より望む所の山形なりと云うこと左もあらんか、深草元政身延道の記に二十五日万沢を出て坂あり馬おふもののいはく、此坂を西行坂と申す。この松は西行の松と申すという歌などあらんとおもへととはんよしなし、南部という村にやすみて午のさかりにそこをいつここをはなるればはや身延の高根もみゆ、いま三里なんありと云う」(以下略)  以上が西行峠に関係する一説であるが、果たして西行がこの国に入ったかどうかは疑問だとする向きが多いようである。いずれにしても西行という地名といい、西行峠といい、西行に関係したものとしての言い伝えである。しかしこれとは別に次のような話が伝わっている。  昔、西行法師は全国行脚の途を駿河から甲州へとむけ、万沢の村へ入っていた。ときあたかも初夏、段々畑の麦は黄色くそまり、あたりの鮮緑に映えてひときは美しかった。村の風情は麦のみのりとは別にさして豊かそうには見えなかったが、また源平の争いもさして波紋を投げかけたようすもなく、貧しいながらも平和そのものであった。山を越え、谷を渡り、あるかなしかの道を歩き続けて来た人の足取りとしては、西行の足は相変わらず軽かった。北面の武将佐藤義清をほうふつさせるに十分であった。道すがら右に左にながめた富士山の美しさ、さき程の峠からの富士もみごとであったが、またこの尾根からのながめも格別である。はるかにガケ下から富士川の瀬音が快い涼風にのってきこえて来る。  西行は路ばたの大きな石に腰をおろして、しばしの憩いを楽しんだ。その時尾根の下の方から小さな足音がきこえてきた。西行は耳をかたむけてその足音の近づくのを待っていた。やがてのぼって来たのはまだ年はもいかない一人の少年であった。みなりは百姓の子らしくみすぼらしいが、目元は涼しく、顔立ちはとても利発そうであった。しょいこを背負い、鎌をたずさえ、額に汗をにじませているこの少年を見ると、西行にいつものくせが出た。だまって通りすぎようとする少年に声をかけた。  「おいおいこぞうさん」少年は立ち止まって西行に目をやった。何ですか。と問いかけるまなざしであった。  「いやすまぬすまぬつい声をかけてしまったが、わしはあやしい者ではない。こぞうさんはいくつになるな」少年は相変わらずだまった【まま:脱か】答えない。西行は気になりはじめたら妙に少年の年齢が気になってきた。「こぞうさんいくつになるかな」このようなひとりぼっちのかわいい子どもを見ると、やはり未だに捨てたはずの煩悩がうずきはじめるのだろうか。もうとうの昔のことになるのに、たもとを分かった妻子のことが………熟中おのれのそでにすがって泣きじゃくったわが子の事が思い出されるのであった。だまって答えない少年におのれの心を見透かされているような気がして、吾れをわが心にはにかみながらも西行はまだ少年をやりすごせなかった。「こぞうさん、ひとりでどこへ行きなさる」どうした事だろう。少年ははじめてにっこり笑った。そしてカン高い声で答えたのだ。「冬青む夏枯草を刈りにゆく」このひと言は、木立ちにさえずる小鳥の声より清々しく、西行にはきこえた。歌をよくし、文武に秀でた人と、自他共に許す西行にとって、少年のこのひと言は余りに西行の心をゆさぶった、もう何も問いかける気になれなくなった。微笑を残してまた小さな足音で山道をのぼってゆく少年の後姿を見送る西行は、もうこの国に入るのをやめようと決心していた。この少年はただひとりで麦刈りにゆこうとしていたのである。冬は青々としていて夏になればみのって枯れてくる。他の草木とは逆である。  ひとつのなぞかけの句である。西行はこの国の人たちの計り知れない奥深さにある種のおそれを感じとったのである。こんな子どもにしてもこのようなうけこたえをする。ましておとなだったらどうだろうと思ったのである。きびすをかえすように西行はこの地を去ったという。  ここで少年に問いかけた僧侶が、名高い西行法師だったと里人の誰が気がついた事だろう。それを知ったのはそれからずっと後のことであった。以来西行は甲州に足跡を残さなかったというが、どんなものであろうか。この外にこれと同じような筋書きで次のような話も伝わっている。  西行がやはりこの坂道で休んでいると、一人の山男に逢った。西行はこれから入国しようとしている甲斐の国の事を少しでも知っておきたいと思っていたので、早速この男に問いかけた。甲斐の国というのはどんな国か、産物は何で人情はどうで………といろいろの事であった。そしてやはり気になるのは歌のことであった。甲斐の国にも歌を詠む者がいるかと尋ねたのである。するとその男は即興で歌を詠んだ。 「イキッチナ ツボミシ花ガ キッチナニ ブッピライ夕ル 樋トジノ花」 というのである。  方言まるだしだったので、さすがの西行もとっさの事にこの歌の意味がわからなかった。もう一度所望して詠んでもらった。するとどうだろう。これは仲々のうた心である。甲斐の国では山男でもこれ程の歌を詠むのか。これではうかつに歩けないぞ。この分ならよっぽどの者がこの国にはいるにちがいないという訳で、この地から入国をあきらめて去ったという。  この歌の意味は「往くときは、まだつぼみであったが帰るときはもう花が開いていた。桜の花のことで、桜の花のひらくのは早いものだ」というものである。樋とじめの花というのは、桜の花のことで、桜の樹皮は曲物を締めるのに使ったことからこう云うのである。  「冬青む………」にしろ、この歌にしろ、仲々当を得たもので、歌人西行法師にまつわる伝説としてふさわしいものといえよう。  End   底本:  西行峠の伝説と文学   発行:  平成二年三月三十一日   編者:  富沢町/富沢町教育委員会   発行者: 富沢町/富沢町教育委員会   国際標準図書番号:   入力::   入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A   編集機: IBM ThinkPad s30 2639-42J   入力日: 2003年12月11日  校正::   校正者: 大黒谷 千弥   校正日: 2003年12月27日  $Id: seikatu.txt,v 1.8 2019/07/09 02:30:53 saigyo Exp $